逢いたくて逢いたくてこの胸の 歌詞。 逢いたくなった時に君はここにいないの歌詞・楽曲情報

小唄 逢い見ての / ほどほどに

逢いたくて逢いたくてこの胸の 歌詞

小田さくらさんがカバーした、MISIAさんの 逢いたくていま。 泣きながら聴きました。 そのときいたのが自分の部屋でよかったです。 本当に、涙が溢れて止まりませんでした。 それは、この歌を聴きながら思い浮かべていたのが、亡くなった父だったからです。 私がこのnoteという場所で文章を綴り始めて、3ヶ月ほどになります。 その中で、中学1年生で父を亡くしているということには触れました。 ただ、それ以上のことを踏み込んで書くことは避けてきました。 今の私の文章力では、父についてや、父に関する想いを伝えきれないと考えていたからです。 ですが、「逢いたくていま」。 小田さくらさんの、儚くも力強い歌声を聴いて、その歌詞に心動かされて、こうして私は父と繋がる心の扉を開けています。 長い間、思い出さないようにしてきた記憶や、外にはめったに出してこなかった想いを、今ここに綴ろうと決めました。 長くなるかもしれませんが、お付き合いいただければ嬉しいです。 父の経歴 私の父の名前は 櫻井孝昌といいます。 ここでわざわざ名前を出したのは、父が人の前に立つような仕事をしていたから、また、亡くなった際にネットメディアや新聞で名前を出していただいたからです。 父に関する想いを書く前に、私の祖母(父の母)の自伝から、「世間一般から見る息子の活躍」を引用します。 東京生まれ。 早稲田大学政治経済学部卒業後、出版社にて書籍編集に携わる。 コンテンツメディアプロデューサー、外務省アニメ文化外交に関する有識者会議委員。 その後、数多くのウェブやモバイルサイトの企画、プロデュース、ディレクション、あるいはアーティストや映画監督、ビジネスリーダーと組んだイベントのプロデュース、モデレーターの実績も多い。 企業や官公庁の事業企画、イベントプロデュース等と並んで、世界におけるアニメやファッションの立ち位置や、外交上の意義について研究。 アニメや原宿ファッションを用いた 文化外交のパイオニア的存在。 世界二十七カ国、延べ百三十都市で、講演やイベント企画といった、「ポップカルチャー外交」活動を推進。 外務省のポップカルチャー企画に関するアドバイザーも務める。 デジタルハリウッド大学大学院特任教授。 明治大学特任教授。 読売新聞にて「櫻井孝昌のルックイースト」を2010年4月から2011年3月まで連載。 週刊アスキーにて「カワイイ文化追っかけ日記」を一年間連載。 ラジオパーソナリティとしての一面もある。 <著書> 「世界カワイイ革命」 「アニメ文化外交」 「日本はアニメで再興する」 「ガラパゴス化のススメ」 「「捨てる」で仕事はうまくいく」 「英語で話そう世界が恋する日本」 「日本が好きすぎる中国人女子」 「世界で一番ユニークな日本だから出来る事」 これを読むとわかるように、父の仕事を一言で表すことはなかなか難しいです。 主に、 日本のポップカルチャーを通じて、世界と日本との架け橋をつくるような活動に携わってた... といえばわかりやすいでしょうか。 はじめのうちは アニメや マンガ、 ロリータといった文化を中心に発信していたと聞いています。 フランスでたまたま「 モーニング娘。 」さんのパフォーマンスを目にした父は、とてもとても感動したそうで。 その経験をきっかけに、アイドルの可能性に開眼し、主に ハロー!プロジェクトに所属しているグループ方とタッグを組むことも増えたそうです。 小学生高学年になると、父が自分の仕事について私に話してくれる機会も増えました。 おもしろく、心温まるエピソードは数え切れないほどあり、どれも私の心に焼き付いています。 父の膝の上で、父が一緒にお仕事をしたアーティストやアイドルの動画を観る時間も、私にとっては幸せの塊でした。 父はよく、「 ヲタクは世界を平和にする」と語っていました。 好きなものを「好き」という。 素敵な作品やパフォーマンスが世界中に広まる。 その積み重ねで、人は理解しあうことができる。 それがゆくゆくは、「平和」につながる。 この考え方が、私はとても好きでした。 そして何より、この考え方のエッセンスのようなものが、今のハロー!プロジェクトの皆さんにも受け継がれているように思えるのが、とても嬉しいです。 「 平和」や「 愛」という壮大なテーマを歌い、踊り、伝え続けるみなさんを、本当に尊敬しています。 父が好きで、伝えたいと思ってきたものを、私はこれからも愛し続けると思います。 父の死 2015年12月4日の未明のことでした。 1時頃目を覚ました私は、リビングの明かりがついていることに気がつきます。 横に父は寝ていませんでしたが、それ自体不思議に感じることはありませんでした。 父が夜遅くまで仕事をして、朝になっても帰ってこないことは、珍しくもなんともなかったのです。 ただ、こんな夜遅くに母が起きていること、そして時折啜り泣きのような音が聞こえることに違和感がありました。 翌朝、6時頃母に起こされました。 母の顔は冷静で、ただ少しだけ、怒っているように見えました。 「お父さんの部屋で話そう」 母はそう言いました。 そのときはまだ、お説教か、何か大事な話か、そのどちらかだろうと脳天気に考えていました。 父の仕事部屋に向かうと、母が正座して待っていました。 12月の6時頃はまだ真っ暗だったことを覚えています。 「電気つけないの?」と聞くと、「いいから座って」と言われました。 母と向き合い、「何?」と尋ねました。 一瞬躊躇った後、母は一言一言、区切るようにして私に告げました。 「お父さんがね」 「今日の未明に」 「電車にはねられて」 ここまで聞いて、私は、「大変なことになった」と思いました。 「病院にお見舞いに行かなければ。 どれくらいケガは重いのだろう」そんなことを考えていました。 「死んじゃったの。 」 頭が真っ白になりました。 涙も出ませんでした。 呆然としている私に、母はなぜか「ごめんね」と言って、今度は弟を起こしに行きました。 事実を告げられた、たった9歳の弟は、私と同様に、呆然としていました。 その後、私は登校しました。 忌引きの制度を使って休むという手もありましたが、「ここにいても邪魔だよね。 私学校行ってくる。 」と言って、慌ただしく家を出ました。 弟もまったく同じ行動をとりました。 多分、一瞬でも忘れたかったのだと思います。 学校に行って、いつもの「日常」を確かめたかった。 学校に向かうと、クラスメイトがいつものように、笑いながら話しかけてきました。 それに応えながらも、私はうまく笑えませんでした。 「お父さんが死んだ」という事実は、私の心臓と同じ場所に、重く重く居座っていました。 一人で抱え込むことはできず、数人の同級生には打ち明けました。 一緒に泣いてくれたり、抱きしめてくれたり、「何か出来ることがあったら言ってね。 」と静かに告げてくれる彼女たちの優しさを、今も覚えています。 先生方も、たくさん心配してくださいました。 「辛かったら我慢しなくてもいい」 その言葉はあたたかく響きましたが、私には我慢するしか方法がありませんでした。 我慢せず、想いを決壊させたら、きっと発狂してしまう。 それが怖くて、その日は結局、一滴の涙も出ませんでした。 父の遺体と対面しても、実感は湧きませんでした。 事故であったにもかかわらず、父の顔と上半身は、とても綺麗なままでした。 今すぐにでも起きてきて、私の名前を呼んでくれそうでした。 ここでもやっぱり、涙は出ませんでした。 それから私は、父の遺影を選びました。 祖母や母は機械に疎かったので、私がその役を買って出たのです。 父のUSBを探しだし、一人で写っている写真の中から、一番よいと思われるものを選びました。 亡くなるほんの一月ほど前に、メキシコのピラミッドの前で撮った写真。 本当に綺麗で、父の笑顔が光っていました。 (余談にはなりますが、2018年、同じ場所をモーニング娘。 の皆さんが訪れたことを知りました。 心の中に、ぽっと花が咲いたことを覚えています。 ) 亡くなってから3日後くらいだったと思いますが、通夜が営まれました。 父と最後に過ごしていた方に拡散をお願いしたおかけで、父を知るたくさんの方が訪れてくださいました。 500人、600人くらいの方が、いらっしゃったと記憶しています。 式場の人が、「こんなにいらっしゃるとはお聞きしていませんでした... 」と唖然とするほど、そして私たち家族も驚くほど、父はたくさんの方々に愛されていました。 悲しさと誇らしさで胸をいっぱいにしながら、私は何百回も、お辞儀をしました。 私が初めて泣いたのは、参列者の方々が、棺の中にいる父に、順番に声を掛けていくセレモニーのときでした。 私たち親族はその様子を、会場の一番前で、見守っていました。 その泣き声を聞いて、私の目から突然、涙が溢れました。 私のお父さんはこんなにも、たくさんの人に愛されていた。 その死が、こんなにもたくさんの人を悲しませるほど、素敵な仕事をしていた。 そんな父が死んだ。 もう二度と会えないー。 その実感が、一気に押し寄せてきて、涙が止まりませんでした。 あの瞬間のことは、今でもずっと覚えています。 しかし、そこからの記憶は、断片的です。 私はそこから数年掛けて、私はようやく「父が死んだ」という事実を、受け入れつつあります。 私と父 私は、父に愛されていました。 自信を持って言い切れるほど、本当に愛されていたと思います。 そして私も、父が大好きでした。 父は、いろいろなところに私を連れて行ってくれました。 いろいろなことを教えてくれました。 ひらがなもカタカナも算数も、要領の悪い私に教えてくれたのは父です。 「平和」という言葉の意味を教えてくれたのも、行動することの大切さを教えてくれたのも、自分の心を知ることの大切さを教えてくれたのも、父です。 今の私は、父なしにはありえません。 父と私には、「~ちゃんとお父さんの歌」という持ち歌がありました。 もちろんオリジナルです。 どこに行くときも、手を繋いで二人で口ずさみました。 懐かしい...。 父が亡くなった直後、中学生の頃は「お父さんと同じ仕事をする!」と言い切っていた私は今、福祉のお仕事に就くことを目指しています。 それでも、根底には父と同じエネルギーが流れていると信じています。 私の書いた文章を、父の母である祖母に見せると、「ほんと、孝昌に似てるわね~」と言われます。 そして母には、「赤ちゃんの頃から似てはいたけど、歳を取るごとに、どんどんそっくりになるわね....... 」と言われます。 父に似ていると言われることは、私とって一番嬉しいことです。 父のことを書いてくれたり、紹介してくれたりしている文章に出会うと、私は自分のことのように飛び上がって喜びます。 「 ずっと一緒」という想いは変わりません。 私の半分は父なわけですから。 これからもずっと、父と歩んでいきます。 生きていたら... 父がもし生きていたら...。 考えても仕方がないことかもしれませんが、つい考えてしまうことがあります。 だからこそ、「逢いたくていま」の歌詞が響いたのかもしれません。 今 逢いたい あなたに 伝えたい事が たくさんある もう二度と逢えないことを 知っていたなら 繋いだ手をいつまでも 離さずにいた 「ここにいて」と そう素直に泣いていたなら 今もあなたは 変わらぬまま 私の隣で笑っているかな 運命が変えられなくても 伝えたいことがある 「戻りたい... 」 あの日 あの時に 叶うのなら 何もいらない 今 逢いたい あなたに 知って欲しいこと いっぱいある ねえ 逢いたい 逢いたい どうしようもなくて 全て夢と願った この心は まだ泣いてる あなたを想っている ずっと 父にとって、ハロー!プロジェクトの皆さんはなくてはならない、パートナーでした。 ですがそれだけではなく、父は私と一緒に、ハロプロのファンでもありました。 父は鞘師里保さんの卒業を目前にして亡くなりました。 だから、それからハロプロに起こったことを、私は父と共有できませんでした。 鈴木香音さん、工藤遥さん、尾形春水さん、飯窪春菜さんの卒業。 工藤さんや尾形さん、飯窪さんのその後のご活躍。 加賀楓さん、横山玲奈さん、森戸知沙希さん、岡村ほまれさん、北川莉央さん、山崎愛生さんの加入。 カントリーガールズの活動休止や、こぶしファクトリーの解散。 BEYOOOOONDSの誕生。 これらを本当は、父と一緒に話したかったです。 一緒にMVを観たかった。 コンサートやミュージカルに行きたかった。 父が亡くなったあと、近所に大きな図書館ができました。 私は父と一緒にそこにいって、勉強やおしゃべりがしたかったです。 高校2年生で平和活動を始めました。 生きていたら父はきっと、応援してくれていたと思います。 もしかしたら、アドバイスをくれていたかもしれません。 父とそんな話もしてみたかったです。 高校3年生で言語聴覚士を目指すことになりました。 父にその夢を話して、背中を押してもらいたかったです。 双極性障害やパニック障害も、父はきっと、その大きな愛で包んでくれたと思います。 父の側にいたかった。 スキーや山登り、日本各地への家族での旅行。 楽しかったけれど。 父が隣にいないことが寂しくてたまらなくなる瞬間が、いくつもありました。 テレビの「人身事故」の表示はいつまでたっても辛くて見られないし、あれからずっと電車は苦手です。 友人のお父さんの話を聞くと、羨ましくて泣きたくなることがたくさんあります。 5年経っても、悲しみもさみしさも、何も癒えてはいません。 「乗り越える」なんてきっとできないし、したいとも思えません。 「逢いたくていま」の歌詞にあるように、私の心はずっと泣いていると思います。 ああそうか。 私がこの歌詞に打たれたのは、泣き続けること、逢いたいと思い続けることを肯定してくれたからかもしれない。 その一方で、私自身の人生は続いていくこと、私の「生」を通じて父に想いを届けることを、小田さくらさんの歌声が伝えてくれました。 彼女の歌声には、人の背中を押し、心に寄り添うような、不思議な力がある気がします。 歌手でもあり、アーティストでもあり、だけどやっぱり最高の「 アイドル」だと、そう思います。 今、父のことと向き合えて良かったと、心の底から思います。 それは、「逢いたくていま」という歌や、小田さくらさんのおかげです。 本当にありがとうございます。 父と関わってくださったみなさんへ (届くかどうかは、わかりませんが... ) 本当にありがとうございました。 これ以外に、言葉がないくらい、本当に感謝しています。 そして、父の思いを受け継いでくださり、ありがとうございます。 世界中のみなさんが、今も父を慕ってくれていることを、本当に誇りに思っています。 私なぞが偉そうに言えることではありませんが...。 みなさんの「夢」は、絶対に絶対に叶います。 櫻井孝昌が、誰も想像もしなかったような「道」を作り上げたように。 お父さんへ たくさん迷惑かけて、ごめんね。 「幸せ」「がんばる」いっぱいいっぱい教えてくれて、ありがとう。 これからも私は生きていきます。 逢いたい気持ちを抱えながら。 あなたの背中を追いかけながら。 2020年7月12日19時 追記 この記事を、冒頭「逢いたくていま」のyoutubeコメント欄やtwitterにて拡散してくださったかたがいらっしゃり、本当にたくさんの方から反響をいただきました。 ありがとうございます。 父の三周忌の際に、菩提寺の住職がおっしゃていた言葉を思い出します。 「人は、2度死ぬ。 1度目は肉体が朽ち果てたとき。 2度目は、誰もに忘れられたとき。 」 「誰か一人でもその人のことを覚えていてくれたら、その人は死なない」 だから皆さん、父のことを覚えていてくれて、生かしてくれて、本当にありがとうございます。 これからもずっとずっと、父が皆さんの心の中にあり続けますように....。 突然のコメント、失礼します。 私には5才の娘がいます。 娘との時間は何にも変えがたい、何にも例えられない、私の人生において超大切なものです。 言うまでもなく、娘は私にとって、今までの人生で出会った人の中で、最高に愛おしい存在です。 円さんの文章を拝見しまして、私は若くもないので、1日1日を注意深く、心身共に健康に、大きな懐を持って娘との時間を増やしていこうと改めて強く思いました。 私はまだ見ぬアイドルのため、準備を積み重ねていますが、私の命が、私が産み出した存在とともに永遠に続くよう、日々精進してまいります。 円さんも常に円さんと共にあるお父上と、楽しいこと、つらいこと、何でも分かち合って、豊かな毎日をお過ごしください。

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逢いたくていまの歌詞

逢いたくて逢いたくてこの胸の 歌詞

君に逢いたくなったら… 君に逢いたくなったら… 1997. 26 JBDJ-1024• 君に逢いたくなったら…• 愛を信じていたい• 君に逢いたくなったら…(オリジナルカラオケ)• 愛を信じていたい(オリジナルカラオケ) 全体的な印象 前作から1ヶ月ちょっとで発売され、その前のブランクが大きかっただけに、随分と急なリリースだな、という印象があった。 タイアップは常磐貴子&竹野内豊のドラマ「理想の結婚」で、ドラマ自体は結構視聴率が高かった。 この曲はドラマに合わせて結婚式ソングとして制作されたとされている。 実際歌詞はそうなっている。 「結婚式の定番ソングに」という意気込みもあった。 しかし、不幸にも同時期に同じく結婚をテーマにしたドラマ「バージンロード」が放送されており、そのテーマソングが累計200万枚を越えた安室奈美恵「Can You Cerebrate? 」であった。 この大ヒット曲の陰に隠れ、結婚式の定番ソングとはなれなかった。 しかし、爽やかな曲調で結構人気がある曲だ。 この曲ではワンコーラス分だけだが、しっかりしたプロモーションビデオが制作されている。 初期の作品以来久々のことだ。 このワンコーラス分のプロモーションビデオはスペースシャワーTVで放送されている。 私は幸運にも録画に成功した。 君に逢いたくなったら… 作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:葉山たけし 「結婚式の定番に」という意気込みもあったこの曲、歌詞はその通り結婚式向けに作られている。 泉水さんらしくプロっぽくない字余り多数、フレーズ間の整合性無視の歌詞だが、それが脳味噌の中に言葉が引っかかる要因となっている。 「「大丈夫だよ」という君の言葉が 一番大丈夫じゃない」の次にハートのマークを付けるのはどうかなあ、とか「これが最初で最後の恋になればいいなと思う」って君何歳だよ、とか突っ込める箇所多数だが、「遠い将来がこんなに 早く来るとは 思わなかった」みたいな何気ない歌詞に惹かれるところが有るね。 曲調は爽やか路線で、私は結構好き。 この頃一番聴いた曲だ。 作曲は織田哲郎だが、この時期既にビーイングから出ていて、avexで相川七瀬を手掛けており、ZARD向けに曲は作っておらず、ストックから掘り起こした曲と思われる。 収録アルバム 愛を信じていたい 作詞:坂井泉水 作曲:徳永暁人 編曲:徳永暁人 ZARDにしては珍しいR&B調の曲。 ファンクってえの?そんな感じ。 作曲は徳永暁人で、前作のカップリングに続いての担当となった。 これが「永遠」の作曲担当に続いていく。 歌詞はえらく大袈裟な表現が多く、泉水さんにしては珍しい作風となっている。 活字になった歌詞を読んでみると、カタカナを効果的に使った表現が、感情を失うまでに一途になった様子を表現しているようにも思える。 収録アルバム *アルバム未収録 ジャケット・ブックレット 泉水さんどアップ。 ただし、ややぼけ気味なので「幽霊みたいでいや!」みたいな意見もあった。 ジャケット裏では南欧とおもわれるロケ地で暖かな光に包まれて佇む泉水さん。 この写真と同じ絵がプロモーションビデオでも使われている。 やや胸が強調されているので「泉水さん、寄せて上げているねえ」という意見もあった。 その意見は次の作品では更に炸裂することになる。 セールス• オリコン最高位2位• 登場週数11週• 総売上63. 6万枚 この作品からオリコンの集計方法が変わっていて、フライング分は発売日に持ち越さずにそのまま集計するようになった。 しかし、前作では長いフライング期間に関わらず23万枚と低迷した初動枚数はこの作品では集計期間が短かったに関わらず30万枚を越えた。 7作目の初動30万で、これが今のところ最後の初動30万枚となっている。 1週目はSMAPとの3度目の直接対決で、初めて勝利した(SMAPのこの時の曲は「ダイナマイト」)。 しかし、その上に安室奈美恵「Can You Cerebrate? 」がいた。 なんと2週目の売り上げとしては史上最高となる46. 0万枚を記録していた。 この結果、ZARDは5作ぶりとなる2位に終わっている。 それにしてもZARDはこういう不運な2位が多い。 初動こそ良かったものの、2週目以降は伸び悩んだ。 登場週数は11週でやや短め、総売上は63. 6万枚でまずまずだったが、発売時にはミリオンの期待がかかっただけに、やや期待はずれの感があった。 それでもZARDとしては97年の最高セールス。 「永遠」より累計は良い。

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歌詞 「逢いたくなった時に 君はここにいない」サザンオールスターズ (無料)

逢いたくて逢いたくてこの胸の 歌詞

小田さくらさんがカバーした、MISIAさんの 逢いたくていま。 泣きながら聴きました。 そのときいたのが自分の部屋でよかったです。 本当に、涙が溢れて止まりませんでした。 それは、この歌を聴きながら思い浮かべていたのが、亡くなった父だったからです。 私がこのnoteという場所で文章を綴り始めて、3ヶ月ほどになります。 その中で、中学1年生で父を亡くしているということには触れました。 ただ、それ以上のことを踏み込んで書くことは避けてきました。 今の私の文章力では、父についてや、父に関する想いを伝えきれないと考えていたからです。 ですが、「逢いたくていま」。 小田さくらさんの、儚くも力強い歌声を聴いて、その歌詞に心動かされて、こうして私は父と繋がる心の扉を開けています。 長い間、思い出さないようにしてきた記憶や、外にはめったに出してこなかった想いを、今ここに綴ろうと決めました。 長くなるかもしれませんが、お付き合いいただければ嬉しいです。 父の経歴 私の父の名前は 櫻井孝昌といいます。 ここでわざわざ名前を出したのは、父が人の前に立つような仕事をしていたから、また、亡くなった際にネットメディアや新聞で名前を出していただいたからです。 父に関する想いを書く前に、私の祖母(父の母)の自伝から、「世間一般から見る息子の活躍」を引用します。 東京生まれ。 早稲田大学政治経済学部卒業後、出版社にて書籍編集に携わる。 コンテンツメディアプロデューサー、外務省アニメ文化外交に関する有識者会議委員。 その後、数多くのウェブやモバイルサイトの企画、プロデュース、ディレクション、あるいはアーティストや映画監督、ビジネスリーダーと組んだイベントのプロデュース、モデレーターの実績も多い。 企業や官公庁の事業企画、イベントプロデュース等と並んで、世界におけるアニメやファッションの立ち位置や、外交上の意義について研究。 アニメや原宿ファッションを用いた 文化外交のパイオニア的存在。 世界二十七カ国、延べ百三十都市で、講演やイベント企画といった、「ポップカルチャー外交」活動を推進。 外務省のポップカルチャー企画に関するアドバイザーも務める。 デジタルハリウッド大学大学院特任教授。 明治大学特任教授。 読売新聞にて「櫻井孝昌のルックイースト」を2010年4月から2011年3月まで連載。 週刊アスキーにて「カワイイ文化追っかけ日記」を一年間連載。 ラジオパーソナリティとしての一面もある。 <著書> 「世界カワイイ革命」 「アニメ文化外交」 「日本はアニメで再興する」 「ガラパゴス化のススメ」 「「捨てる」で仕事はうまくいく」 「英語で話そう世界が恋する日本」 「日本が好きすぎる中国人女子」 「世界で一番ユニークな日本だから出来る事」 これを読むとわかるように、父の仕事を一言で表すことはなかなか難しいです。 主に、 日本のポップカルチャーを通じて、世界と日本との架け橋をつくるような活動に携わってた... といえばわかりやすいでしょうか。 はじめのうちは アニメや マンガ、 ロリータといった文化を中心に発信していたと聞いています。 フランスでたまたま「 モーニング娘。 」さんのパフォーマンスを目にした父は、とてもとても感動したそうで。 その経験をきっかけに、アイドルの可能性に開眼し、主に ハロー!プロジェクトに所属しているグループ方とタッグを組むことも増えたそうです。 小学生高学年になると、父が自分の仕事について私に話してくれる機会も増えました。 おもしろく、心温まるエピソードは数え切れないほどあり、どれも私の心に焼き付いています。 父の膝の上で、父が一緒にお仕事をしたアーティストやアイドルの動画を観る時間も、私にとっては幸せの塊でした。 父はよく、「 ヲタクは世界を平和にする」と語っていました。 好きなものを「好き」という。 素敵な作品やパフォーマンスが世界中に広まる。 その積み重ねで、人は理解しあうことができる。 それがゆくゆくは、「平和」につながる。 この考え方が、私はとても好きでした。 そして何より、この考え方のエッセンスのようなものが、今のハロー!プロジェクトの皆さんにも受け継がれているように思えるのが、とても嬉しいです。 「 平和」や「 愛」という壮大なテーマを歌い、踊り、伝え続けるみなさんを、本当に尊敬しています。 父が好きで、伝えたいと思ってきたものを、私はこれからも愛し続けると思います。 父の死 2015年12月4日の未明のことでした。 1時頃目を覚ました私は、リビングの明かりがついていることに気がつきます。 横に父は寝ていませんでしたが、それ自体不思議に感じることはありませんでした。 父が夜遅くまで仕事をして、朝になっても帰ってこないことは、珍しくもなんともなかったのです。 ただ、こんな夜遅くに母が起きていること、そして時折啜り泣きのような音が聞こえることに違和感がありました。 翌朝、6時頃母に起こされました。 母の顔は冷静で、ただ少しだけ、怒っているように見えました。 「お父さんの部屋で話そう」 母はそう言いました。 そのときはまだ、お説教か、何か大事な話か、そのどちらかだろうと脳天気に考えていました。 父の仕事部屋に向かうと、母が正座して待っていました。 12月の6時頃はまだ真っ暗だったことを覚えています。 「電気つけないの?」と聞くと、「いいから座って」と言われました。 母と向き合い、「何?」と尋ねました。 一瞬躊躇った後、母は一言一言、区切るようにして私に告げました。 「お父さんがね」 「今日の未明に」 「電車にはねられて」 ここまで聞いて、私は、「大変なことになった」と思いました。 「病院にお見舞いに行かなければ。 どれくらいケガは重いのだろう」そんなことを考えていました。 「死んじゃったの。 」 頭が真っ白になりました。 涙も出ませんでした。 呆然としている私に、母はなぜか「ごめんね」と言って、今度は弟を起こしに行きました。 事実を告げられた、たった9歳の弟は、私と同様に、呆然としていました。 その後、私は登校しました。 忌引きの制度を使って休むという手もありましたが、「ここにいても邪魔だよね。 私学校行ってくる。 」と言って、慌ただしく家を出ました。 弟もまったく同じ行動をとりました。 多分、一瞬でも忘れたかったのだと思います。 学校に行って、いつもの「日常」を確かめたかった。 学校に向かうと、クラスメイトがいつものように、笑いながら話しかけてきました。 それに応えながらも、私はうまく笑えませんでした。 「お父さんが死んだ」という事実は、私の心臓と同じ場所に、重く重く居座っていました。 一人で抱え込むことはできず、数人の同級生には打ち明けました。 一緒に泣いてくれたり、抱きしめてくれたり、「何か出来ることがあったら言ってね。 」と静かに告げてくれる彼女たちの優しさを、今も覚えています。 先生方も、たくさん心配してくださいました。 「辛かったら我慢しなくてもいい」 その言葉はあたたかく響きましたが、私には我慢するしか方法がありませんでした。 我慢せず、想いを決壊させたら、きっと発狂してしまう。 それが怖くて、その日は結局、一滴の涙も出ませんでした。 父の遺体と対面しても、実感は湧きませんでした。 事故であったにもかかわらず、父の顔と上半身は、とても綺麗なままでした。 今すぐにでも起きてきて、私の名前を呼んでくれそうでした。 ここでもやっぱり、涙は出ませんでした。 それから私は、父の遺影を選びました。 祖母や母は機械に疎かったので、私がその役を買って出たのです。 父のUSBを探しだし、一人で写っている写真の中から、一番よいと思われるものを選びました。 亡くなるほんの一月ほど前に、メキシコのピラミッドの前で撮った写真。 本当に綺麗で、父の笑顔が光っていました。 (余談にはなりますが、2018年、同じ場所をモーニング娘。 の皆さんが訪れたことを知りました。 心の中に、ぽっと花が咲いたことを覚えています。 ) 亡くなってから3日後くらいだったと思いますが、通夜が営まれました。 父と最後に過ごしていた方に拡散をお願いしたおかけで、父を知るたくさんの方が訪れてくださいました。 500人、600人くらいの方が、いらっしゃったと記憶しています。 式場の人が、「こんなにいらっしゃるとはお聞きしていませんでした... 」と唖然とするほど、そして私たち家族も驚くほど、父はたくさんの方々に愛されていました。 悲しさと誇らしさで胸をいっぱいにしながら、私は何百回も、お辞儀をしました。 私が初めて泣いたのは、参列者の方々が、棺の中にいる父に、順番に声を掛けていくセレモニーのときでした。 私たち親族はその様子を、会場の一番前で、見守っていました。 その泣き声を聞いて、私の目から突然、涙が溢れました。 私のお父さんはこんなにも、たくさんの人に愛されていた。 その死が、こんなにもたくさんの人を悲しませるほど、素敵な仕事をしていた。 そんな父が死んだ。 もう二度と会えないー。 その実感が、一気に押し寄せてきて、涙が止まりませんでした。 あの瞬間のことは、今でもずっと覚えています。 しかし、そこからの記憶は、断片的です。 私はそこから数年掛けて、私はようやく「父が死んだ」という事実を、受け入れつつあります。 私と父 私は、父に愛されていました。 自信を持って言い切れるほど、本当に愛されていたと思います。 そして私も、父が大好きでした。 父は、いろいろなところに私を連れて行ってくれました。 いろいろなことを教えてくれました。 ひらがなもカタカナも算数も、要領の悪い私に教えてくれたのは父です。 「平和」という言葉の意味を教えてくれたのも、行動することの大切さを教えてくれたのも、自分の心を知ることの大切さを教えてくれたのも、父です。 今の私は、父なしにはありえません。 父と私には、「~ちゃんとお父さんの歌」という持ち歌がありました。 もちろんオリジナルです。 どこに行くときも、手を繋いで二人で口ずさみました。 懐かしい...。 父が亡くなった直後、中学生の頃は「お父さんと同じ仕事をする!」と言い切っていた私は今、福祉のお仕事に就くことを目指しています。 それでも、根底には父と同じエネルギーが流れていると信じています。 私の書いた文章を、父の母である祖母に見せると、「ほんと、孝昌に似てるわね~」と言われます。 そして母には、「赤ちゃんの頃から似てはいたけど、歳を取るごとに、どんどんそっくりになるわね....... 」と言われます。 父に似ていると言われることは、私とって一番嬉しいことです。 父のことを書いてくれたり、紹介してくれたりしている文章に出会うと、私は自分のことのように飛び上がって喜びます。 「 ずっと一緒」という想いは変わりません。 私の半分は父なわけですから。 これからもずっと、父と歩んでいきます。 生きていたら... 父がもし生きていたら...。 考えても仕方がないことかもしれませんが、つい考えてしまうことがあります。 だからこそ、「逢いたくていま」の歌詞が響いたのかもしれません。 今 逢いたい あなたに 伝えたい事が たくさんある もう二度と逢えないことを 知っていたなら 繋いだ手をいつまでも 離さずにいた 「ここにいて」と そう素直に泣いていたなら 今もあなたは 変わらぬまま 私の隣で笑っているかな 運命が変えられなくても 伝えたいことがある 「戻りたい... 」 あの日 あの時に 叶うのなら 何もいらない 今 逢いたい あなたに 知って欲しいこと いっぱいある ねえ 逢いたい 逢いたい どうしようもなくて 全て夢と願った この心は まだ泣いてる あなたを想っている ずっと 父にとって、ハロー!プロジェクトの皆さんはなくてはならない、パートナーでした。 ですがそれだけではなく、父は私と一緒に、ハロプロのファンでもありました。 父は鞘師里保さんの卒業を目前にして亡くなりました。 だから、それからハロプロに起こったことを、私は父と共有できませんでした。 鈴木香音さん、工藤遥さん、尾形春水さん、飯窪春菜さんの卒業。 工藤さんや尾形さん、飯窪さんのその後のご活躍。 加賀楓さん、横山玲奈さん、森戸知沙希さん、岡村ほまれさん、北川莉央さん、山崎愛生さんの加入。 カントリーガールズの活動休止や、こぶしファクトリーの解散。 BEYOOOOONDSの誕生。 これらを本当は、父と一緒に話したかったです。 一緒にMVを観たかった。 コンサートやミュージカルに行きたかった。 父が亡くなったあと、近所に大きな図書館ができました。 私は父と一緒にそこにいって、勉強やおしゃべりがしたかったです。 高校2年生で平和活動を始めました。 生きていたら父はきっと、応援してくれていたと思います。 もしかしたら、アドバイスをくれていたかもしれません。 父とそんな話もしてみたかったです。 高校3年生で言語聴覚士を目指すことになりました。 父にその夢を話して、背中を押してもらいたかったです。 双極性障害やパニック障害も、父はきっと、その大きな愛で包んでくれたと思います。 父の側にいたかった。 スキーや山登り、日本各地への家族での旅行。 楽しかったけれど。 父が隣にいないことが寂しくてたまらなくなる瞬間が、いくつもありました。 テレビの「人身事故」の表示はいつまでたっても辛くて見られないし、あれからずっと電車は苦手です。 友人のお父さんの話を聞くと、羨ましくて泣きたくなることがたくさんあります。 5年経っても、悲しみもさみしさも、何も癒えてはいません。 「乗り越える」なんてきっとできないし、したいとも思えません。 「逢いたくていま」の歌詞にあるように、私の心はずっと泣いていると思います。 ああそうか。 私がこの歌詞に打たれたのは、泣き続けること、逢いたいと思い続けることを肯定してくれたからかもしれない。 その一方で、私自身の人生は続いていくこと、私の「生」を通じて父に想いを届けることを、小田さくらさんの歌声が伝えてくれました。 彼女の歌声には、人の背中を押し、心に寄り添うような、不思議な力がある気がします。 歌手でもあり、アーティストでもあり、だけどやっぱり最高の「 アイドル」だと、そう思います。 今、父のことと向き合えて良かったと、心の底から思います。 それは、「逢いたくていま」という歌や、小田さくらさんのおかげです。 本当にありがとうございます。 父と関わってくださったみなさんへ (届くかどうかは、わかりませんが... ) 本当にありがとうございました。 これ以外に、言葉がないくらい、本当に感謝しています。 そして、父の思いを受け継いでくださり、ありがとうございます。 世界中のみなさんが、今も父を慕ってくれていることを、本当に誇りに思っています。 私なぞが偉そうに言えることではありませんが...。 みなさんの「夢」は、絶対に絶対に叶います。 櫻井孝昌が、誰も想像もしなかったような「道」を作り上げたように。 お父さんへ たくさん迷惑かけて、ごめんね。 「幸せ」「がんばる」いっぱいいっぱい教えてくれて、ありがとう。 これからも私は生きていきます。 逢いたい気持ちを抱えながら。 あなたの背中を追いかけながら。 2020年7月12日19時 追記 この記事を、冒頭「逢いたくていま」のyoutubeコメント欄やtwitterにて拡散してくださったかたがいらっしゃり、本当にたくさんの方から反響をいただきました。 ありがとうございます。 父の三周忌の際に、菩提寺の住職がおっしゃていた言葉を思い出します。 「人は、2度死ぬ。 1度目は肉体が朽ち果てたとき。 2度目は、誰もに忘れられたとき。 」 「誰か一人でもその人のことを覚えていてくれたら、その人は死なない」 だから皆さん、父のことを覚えていてくれて、生かしてくれて、本当にありがとうございます。 これからもずっとずっと、父が皆さんの心の中にあり続けますように....。 突然のコメント、失礼します。 私には5才の娘がいます。 娘との時間は何にも変えがたい、何にも例えられない、私の人生において超大切なものです。 言うまでもなく、娘は私にとって、今までの人生で出会った人の中で、最高に愛おしい存在です。 円さんの文章を拝見しまして、私は若くもないので、1日1日を注意深く、心身共に健康に、大きな懐を持って娘との時間を増やしていこうと改めて強く思いました。 私はまだ見ぬアイドルのため、準備を積み重ねていますが、私の命が、私が産み出した存在とともに永遠に続くよう、日々精進してまいります。 円さんも常に円さんと共にあるお父上と、楽しいこと、つらいこと、何でも分かち合って、豊かな毎日をお過ごしください。

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