天気の子 エロい。 天気の子に瀧・三葉・四葉・テッシー&サヤちん(君の名は。キャラクター)が登場!物語の時系列や繋がりは?

天気の子面白くない?辛口・批判コメント!感情移入できない人続出?|キテネブログ

天気の子 エロい

天気の子が面白くなかったと感じたことがなんか悔しいです。 先日天気の子を見に行ったのですが、面白い とは思えませんでした。 でも映画自体はすごく良かったと感じて来週も3回目を 見に行くし、個人的に好きだったの は、キャラたちのセリフややりとり、シーンひとつひとつと言った部分部分です。 でも展開や結末といったメインの話は面白くはない、微妙だなと思ってしまいました。 なぜなら、展開が自分の思い通りに進んでしまって、衝撃さ?などが感じられなかったからです。 面白かった面白くなかったなんて、人それぞれですし気にすることはないのですが ネットなどで感想を見たら自分ってちょっと可笑しいのかなっていう気持ちになってしまいました。 ネットでは ・君の名は。 みたいな話を期待して見に行く人やオタクではない普通の一般人、常識人には面白さが分からないかもしれない ・君の名は。 より天気の子の方が良かった ほとんどオタク などといった感想を見たのですが 私もオタクなのになんでだろうと思ってしまいました。 作品に対する見る目がないのかなとか…感じ方なんて人それぞれなのは分かってるけれど、好きなのに面白いと思えないなんてなんか残念です。 でも、面白いと感じなかった原因が1つわかっていて、それは 期待しすぎた というです。 天気の子を見る前に期待しすぎて色々感想を見てから見に行ったので 特に、ツイッターで エヴァQでジョジョ6部でなるたるだった というツイートが印象的でした そこで、私のように天気の子を見て微妙だったと感じた人に、実はこんなすごい作品だったんだ!と思えるような見方、ポイント、注目すべきところなどがあるはずなので教えていただきたいです。 それでも面白いと感じなかったら仕方ないけれど、好きだと思った作品を面白くはなかった としてしまうのは悲しくて。 作品自体は本当に好きで来週も見に行くので、ぜひそのときの参考にしたいです。 よろしくお願いします。 >なぜなら、展開が自分の思い通りに進んでしまって、衝撃さ?などが感じられなかったからです ここに絞って解説します。 あの映画で扱っているのは「最大多数の最大幸福」と「社会に対する責任の本質」という問題です。 社会というのは、時には犠牲が必要で、その際に誰に犠牲になってもらうのか、どの程度犠牲になってもらうのか、補償をどのようにしていけば良いのか、という問題が必ず起きます。 犠牲を特定の人に押し付けて他の人が利益を得れば、当然不平等が発生し、人々は社会の公正さに疑問を持つようになります。 これを糺すのが「社会的正義」です。 このとき「最大多数の最大幸福」という原理が用いられます。 「社会の善」が最大になるように、犠牲を選びなさいということです。 そして、白羽の矢が当たったのが陽菜というのはお分かりだと思います。 問題は、陽菜が死ぬことで「社会の善」が最大になるのかということです。 みんなが晴れを望んでいる。 晴れなければ農作物は収穫できず、健康にも害を及ぼし、いずれは東京が海に沈んでしまう。 でも、陽菜が社会に対して責任を負うべき立場にあるのでしょうか。 天気というのは自分が関知しない自然現象です。 それで人柱にされたら、たまったものではありません。 一時的に雨を止める力があったとしても、その能力自体が偶然の産物です。 生まれてきた子どもが、たまたま身体に障害があったというレベルと一緒です。 すると、陽菜が犠牲になっても「社会の善」は最大にならないのです。 だとすれば、たとえ拳銃を使ってでも、陽菜を現世に返そうとする帆高の行動は「社会的正義」に適った合理的なものです。 そもそも、天気が悪いということには誰も責任は取れません。 しかし、農作物の成長や、健康被害、防災などに対しては、国には責任があります。 最終的には有権者である大人に責任があります。 東京が海に沈むまで3年もあるんですから、他人事みたいに構えていないで何か対策があるべきです。 護岸工事をしたり、低地に住んでいる人を避難させたり、農作物の輸入を拡大したりと、普通にいくらでもやることは思いつきます。 そういう人たちが、何もしないで歌舞伎町で遊んでいたら、東京が海に沈むのだって自業自得です。 つまり、帆高は「最適解」を選んでいるんですよ。 責任を負うべき立場にない陽菜を現世に返して犠牲をやめさせる。 自業自得の人たちには身をもって責任を負ってもらう。 これ以上はないほどの「最大多数の最大幸福」です。 だって生命には何ものにも代えられない価値があるのですから、その他大勢の人たちに犠牲になってもらうのが当然なのです。 この映画がひねりがなくて面白くないと思った質問者さんは、善悪の判断において正常な感覚を持っています。 ただ、これではせっかく映画代をはらったのにガッカリですから、いくつか考察点を述べます。 天井に向けて撃ったので弾は当たりませんでしたが、もし須賀に当たって彼が死んだとき、それでも最大多数の最大幸福と言えるのでしょうか。 須賀には、自分が世界の姿を変えたなどと思うなと諭されますが、帆高は陽菜に会いに行こうとする坂道で「あの時、世界の形を決定的に変えた」とつぶやきます。 世界の形を変えたというなら、帆高にはいまの世界に対して責任があります。 それはどのような責任なのでしょうか。 こういったことを念頭において考えられると、より深く映画を楽しめると思います。 エンタメ性よりテーマ性に振った作品だからじゃないでしょうか。 先に回答されている方もいますが、『天気の子』は社会的正義がテーマになっています。 『天気の子』単独での考察は先の回答者がかなり詳しくされているので、双子関係にある『君の名は』との合わせて考える方向で回答します。 まず、『天気の子』と『君の名は』が強い関係を持っていることは、演出の類似性・音曲担当の同一性といった表現形式だけでなく、劇中において『君の名は』での主人公であった瀧や三葉が登場することや舞台となった場所が登場することからも窺えます ただし、前作の人物がカメオ出演することは新海誠の作品では良くあることなのであまり重視すべきではないかもしれません。 この二つの作品が対であることを示す文学装置は以下のものです。 そして、この双対関係は二つの作品の方向が逆であることを暗示しています。 両作品とも主人公はヒロインを救うために行動します。 『君の名は』ではヒロイン救済に付随して糸守の人々を救います。 一方、『天気の子』ではヒロイン救済の結果、東京の人々を不幸にします。 つまり、私的に重要な人間を救う行為と「最大多数の最大幸福」を達成する行為とが両立できるのか対立しているのかで真逆なのです。 『君の名は』のようにヒロイン救済とセカイ救済が両立しているwin-winの関係ならば主人公の行為に倫理的葛藤がなく 手段的な正当性はともかく 、全く問題なく承認できます。 そこに「文学的な問い」はなく全くのエンターテイメントとして楽しめます。 一方、『天気の子』はヒロイン救済とセカイ救済が対立していてトレード・オフの関係です。 主人公はヒロインを救済するためにセカイを犠牲にします。 水没した都市・降り続く雨といった抽象的な不幸だけでなく、晴れを喜んでいた劇中の人々や須賀親子の喜びを失わせます。 しかし、主人公たちが社会から受けた様々な悪意・無理解、陽菜が人柱になる義務の無さ、人柱になったことすら認識されずなんの見返りもないことなどが、セカイを犠牲にして陽菜を救済する帆高の行為を感情的に是認させます。 つまり、逆説的に「社会的に意義がある行為をある人間に推奨すること」の前提を『天気の子』という作品は問うているといえると思います。 それだけでなく、「陽菜と帆高の幸せ」はメタ的に「瀧と三葉の運命的邂逅」を犠牲にするという 『君の名を』を観た 観衆にとって感情的に受け入れがたい結果になることを突きつけ、「個人的に意義のある行為が推奨されること」の前提もまた『天気の子』は問うているのだと思います。 駄作だと思いますよ。 そもそもやり方が汚い、前もって「敢えていろんな人を怒らせるように作った」とかって。 それを言うとすべてを意図してるかのようになって批判が出来ない。 映画オタクから言わせると ・無駄に他の商品のプロモーションがある。 ・ご飯一つの描写をとってもジブリと雲泥の差 ・キャラクター描写が甘過ぎて感情移入できない。 小栗旬の役のやつなんかタバコを子供の為にやめてるとかいいながらちょっとしたことですぐに吸ってしまう。 ・説明を描写ではなく主人公の口から語らせるという、最も低レベルな演出。 例えば逮捕されて警察の車の中で「みんな知らないんだ。 この天気は犠牲の上に…」 ・寒すぎるアニメ的展開。 突然雷を落として大爆発。 突然本田翼の役の女がバイクで疾走。 先輩に告白あります、先輩って…。 もしかしたら狙ってるのかなと思った描写は ・ラブホが避難所になるところ。 背景を描かずに想像させるのはよくある。 あくまでアニメだからいろんなルールを逸脱したり、敢えてアニメ的描写を入れるのもわかる。 ただそのすべてが雑でレベルが低い。 ただ相変わらず背景画や、所々の絵は見せ場ではあると思う。 まぁある意味新海誠らしい。 星を追う子どもにレベル的には近いかな。

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天気の子(映画)の聖地巡礼やロケ地場所はどこ?撮影スポットも!

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大ヒットの前作『君の名は。 』にどこまで迫るかが注目されています。 筆者は前回『君の名は。 』(別サイト)を書いて大反響をいただいたのですが、「 みんな(セカイ系で中二病な)新海監督が好きなんやな!」という手応えを感じました。 なので、今回も『君の名は。 』のようなセカイ系ファンタジーな作品を期待していましたし、正直、また良い感じにオカルトとか神話目線からの考察記事が書けちゃうんじゃないかという下心をもって公開初日に鑑賞したわけです。 ところがどっこい。 この作品は「違和感」だらけでした。 単なるファンタジーではない「現実社会」の何かを描こうとしている。 新海監督から挑戦状を叩きつけられた気分でした。 そして鑑賞後、「オカルト的な考察では火傷する」という警告が私の頭の中で発生したのです。 まず、『君の名は。 』とはまったく違う出来上がりです。 そして従来のセカイ系とも違う。 すぐに似た作品を特定したがるジャンル特定厨の私は、頭を抱えました。 しかもその似ているとされる作品は、 ジブリ作品から18禁エロゲーまでバラバラです。 いやバラバラにもほどがあるぞ。 そしてジャンルだけではありません。 なんなら賛否も分かれています。 ここまで評価がとっ散らかっている作品も珍しいでしょう。 実際、『天気の子』の「違和感」に関する記事は多数公開されています。 一体何が起きているんです…? そこで、この映画にはもしかすると、人によって評価を玉虫色に変えてしまう「決定的な何か」が潜んでいるんじゃないかと思ったわけです。 悩みに悩んだ私は、その謎を解明するためアマゾンの奥地…ではなく、元臨床心理士の春井星乃さんにお話を聞くことにしました。 それこそアマゾンの奥地まで行けるほどの文章量です。 満を持していたらこんな時期になってしまいました…。 ただ、今だからこそ生まれた考察でもあります。 ゆっくりでも読んでいただけると嬉しいです。 【目次】 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 『天気の子』の隠されたテーマは「法外のシンクロ」 Credit: 2019「天気の子」製作委員会 まき この作品ほど評価が分かれるものも珍しいと思うんですが、あえていきなり聞きます。 春井さんはこの映画を観て最初にどう感じました?(ゴクリ) 春井 そうですね、まず思ったのは「 この作品のテーマは法外のシンクロだろう」ということでした。 さすが新海監督、今一番タイムリーというか重要なところを突いてきたなと。 まき …いきなりボロクソに批判されたらどうしようかと思っていたので、冷静なご回答に少し安心しました。 しかし何か早速難しそうな用語が出てきましたね…。 法外のシンクロがタイムリー? まず法外のシンクロとはなんぞや…? 春井 映画を観る前に、毎日新聞の新海監督のインタビュー記事を読んだのですが、そこにこんな記述があったんです。 (中略)もう一つの理由は、昨今、何か窮屈さみたいなものがずっとあったことです。 SNSが典型ですけれども、正しい言葉以外は、一斉にたたかれる。 それも社会的な正しさ、国際的な正しさ、ポリティカル・コレクトネスという言葉もありますが、「正しさ」だけが流通してしまっている。 でも僕は、個人の願いとか個人の欲望とかって、時にはポリティカル・コレクトネスとか、最大多数の幸福とかとぶつかってしまうことがあると思う。 でもそういうことが今、言えなくなってきています。 常に監視されているような中、ルールから外れたことを言ってしまうと一斉にたたかれるし、常にたたく対象を探す祭りが起きているような雰囲気。 そういうところへの反発やいらだちが私の中でずっとあり、この閉塞感やどうしようもなさを吹き飛ばしてくれる少年少女がほしいという気持ちがありました。 そういった2つの気持ちからこの企画になっていきました。 今のSNSや時代の雰囲気を上手く捉えているなと。 で、これと法外のシンクロがどう関係してくるんですか? 春井 法外のシンクロというのは社会学者の宮台真司さんの言葉なんですけど……『万引き家族』は見ましたか? まき はい。 去年公開された是枝監督の作品で、確かカンヌ国際映画祭で賞を取ったやつですよね。 ボロ泣きでしたが? 春井 そうでしたか(笑)。 あの作品は、万引きで生計を立てている血のつながらない疑似家族の絆の物語でしょ。 万引きというのは違法。 だから法外ってこと。 シンクロというのは、まあ共感とか絆と言っていっていいんじゃないかな。 だから、『万引き家族』のテーマも「法外のシンクロ」なの。 まき ああ、なるほど。 法を超えたところで結びつく人間の絆ということですね。 そういえば新海監督も『万引き家族』を観た時に、自分とやりたいことが近いなと感じたそうですよ。 春井 そんなにはっきり仰ってたんですね。 宮台さんは、その法外のシンクロこそが本当の人間の結びつきだと言っているんです。 まき ふむふむ。 でも、なんで「法外」であることが大事なんですか?「法外」って要はダメなやつですよね。 盗んだバイクで走り出したり学校の窓ガラス割ったり。 春井 そう、普通そう思いますよね。 でもこれにはふか〜い理由があるんです。 それを説明するには、人間の意識の発達過程についてお話する必要があるんですけど…… まき 新海監督の感想から、心理学の専門知識が掘り起こされるわけですね!オラなんかワクワクしてきたぞ。 「社会的正しさ」は逆によくない? Credit: 2019「天気の子」製作委員会 春井 簡単にいうと、人間は13〜14歳になると、アイデンティティ(自我同一性)を確立することが課題になります。 アイデンティティとは、「自分とは〜だ」という一貫した自分のイメージを持つことです。 まき ふむふむ。 中二病とかもそこで出てくるわけだ。 春井 そうですね。 人からどう見られているかということが非常に気になってきます。 その自分を外から見る目を持って、自分の内面と向き合い始めるのがちょうどその頃なんです。 まき 人からどう見られるかを気にすることが、自分の内面と向き合うことの始まりなんですね。 確かに革の黒手袋とか、自分の深淵と向き合わないとはめられませんよね…。 フェイクレザー フィンガーレスグローブ 春井 …黒手袋はよくわかりませんが(笑)、心理学者のマーシャという人が、 アイデンティティを確立するには、「危機と傾倒」という2つの要素が必要だと言っています。 「危機」というのは、それまで当たり前のように受け入れていた親の価値観や考え方に疑問を感じ、これでいいのかと考え始めることです。 「傾倒」とは、何か特定の価値観、世界観、考え方を自分で選択し採用して、それに基づいて目標等を設定して生きることです。 そして、マーシャはアイデンティティが確立するまでには4つの段階があると言っているの。 まき 4つの段階? 春井 そう。 危機も傾倒もない「自我同一性拡散」、危機を経験しない「早期完了」、危機を経ているが「傾倒」がまだない「モラトリアム」、危機・傾倒両方経験した「自我同一性達成」の4つです。 そしてこの中で 「法外」に関係しているのが「早期完了」なんです。 まき モラトリアムって用語はよく聞きますね。 その、法外に関係ある「早期完了」っていうのはどういう状態なんですか? 春井 早期完了とは、 親の価値観をそのまま取り入れて、それを自分として生きるという状態です。 本当の自分と向き合わずに、他者の考えを取り入れてそこに同一化して生きてしまうんですね。 まき 「ママがそう言うならそうなんだろう」的な案件ですねわかります。 それと法外がどうして関係あるんですか? 春井 一度そういう風に生きる癖がついてしまうと、どんどん更に大きなもの、偉大なものと同一化したくなってくるんです。 これは自分の自己肯定感を上げるためです。 宮台さんも、自己肯定感には2種類あると言っていて、このような自己肯定感を「崇高なものとの同一化による自己肯定感」と呼んでいます。 まき そっか、その「崇高なもの」っていうのが法律とか、新海監督が言ってた「社会的正しさ」「ポリティカル・コレクトネス」ってことなんですね。 そういうものに同一化しちゃうと、本当の自分が隠れて見えなくなっちゃって、偽りの人生を生きるしかなくなるんですかね。 じゃあ、国とか政府とか、政治的思想とかっていうのもそうですか? 春井 うん。 まき なるほどよくみるやつ…。 春井 そういう偽りの人生を生きている状態では、本当の人と人との関係性は結ぶことは難しいんです。 同一化した「崇高なもの」を維持することが最大目的になってしまって、相手の感情とか考え方なんて大事にしようとは思えなくなります。 結局、そういう社会的正しさや政治的思想、精神世界的思想、性別なんかをアイデンティティにしても、そんなものは誰でも取り替え可能なもので、その人じゃなきゃダメというものではないですよね。 そういう人には、帆高が陽菜にしたように、警察に追われることになっても人生をかけて会いたいとは思えないんじゃないかな。 まき 社会的立場とか作られたキャラじゃなく、本当の自分、取り替え可能ではない唯一の自分と相手の絆というのが大事で、それが「法外のシンクロ」なんですね。 須賀が「帆高が警察から逃げてまで陽菜を助けに行こうとしている」と刑事さんから聞いたときに、涙を流していましたけど、それも「法外のシンクロ」に感動したということなんですかね。 春井 そうですね。 新海監督はまずはそれが言いたかったのではないかと思います。 セカイ系とは真逆の作品である『天気の子』の挑戦とは Credit: 2019「天気の子」製作委員会 まき 私もそうだったんですが、この「天気の子」には様々な方が違和感を持ったようなんですね。 セカイ系ファンも、それこそ新海原理主義の方も。 私は、新海監督の「挑戦状」「反骨精神」のようなものを感じました。 監督自身、観た人を「怒らせたい」なんて言っていたし。 春井 そうですね。 新海監督は「自我の誘惑」を全て断ち切る方向性、今までの枠を超える作品を目指したのではないかと思うんです。 すると、当然今までのシステムに安住していた人は違和感を持ちますよね。 まき 「自我の誘惑」って? 春井 例えば、さっきの「崇高なものとの同一化によって自己肯定感を上げたい」という欲求は、まさに人間の心に備わった自我を維持しようとするシステムから生じるものなんです。 それが「自我の誘惑」。 新海監督は、まず、その「崇高なもの=社会的正しさ」に同一化して自我を保つことに一石を投じたわけですね。 まき なるほど。 それが私の感じた「観客への挑戦状」だったのかな。 そういえば、帆高や陽菜が街で出会う働く大人たちは、社会的な立場に同一化して生きている人の象徴だったのかも? 春井 そうですね。 そして『天気の子』は、監督が意図したかはわかりませんが、セカイ系にも同じように一石を投じている気がします。 今までのセカイ系というのは、2人の関係と世界の終末のような非現実的な状況というのが並行して描かれていたわけですが、その間の社会や他者の集団・コミュニティというものは描かれていませんでした。 2人の感情的なやり取りに焦点が当てられ、社会や現実というものがまるでないもののように描かれるわけです。 まき 私はセカイ系といわれる作品は大体大好きなんですが、『新世紀エヴァンゲリオン』にしても『涼宮ハルヒの憂鬱』にしても、確かに「俺とお前」で世界の行く末が決定したりしますもんね。 春井 そうですね。 こういう2人の感情的な関係だけの世界にいるのは、人間にとってはラクなんです。 それこそ「自我の誘惑」に負けた世界ですね。 まき えっと…なんかごめんなさい… 春井 セカイ系が好きな人を責めているわけじゃないですよ(笑)。 私もセカイ系の面白さはよく分かります。 ただセカイ系は、「お母さんと息子」という全能感をもったまま存在できる乳幼児期の世界に近いものがあるんですよね。 新海監督は、そこに「社会」「現実」「警察」「善悪の概念」というものを持ち込んできた。 これは、本当にセカイ系への挑戦状ですよね。 そこに安住はさせないぞ、「自我の誘惑」に勝てと言っているのではないでしょうか。 まき あ〜、だからセカイ系の作品とみると違和感を感じるんですね。 春井 そして、この「社会」や「現実」、「善悪の概念」「常識」というのは、有名な心理学者のフロイトの言葉でいうと「超自我」ということになるんです。 まき また新しい用語が出てまいりました。 「超自我」とは? 春井 4〜6歳の、言葉が発達してくる男根期という時期に「〜すべき」とかの善悪の概念が出てくるんです。 それが「超自我」。 それまでは、子供はお母さんと自分だけの主観的な世界にいるんですが、言葉というのはその他大勢の共通認識のうえに成り立つものだから、客観的な世界なんです。 それで超自我が生じて、子供は客観的な世界を認識するようになる。 そして、児童期にかけて、超自我を取り込んで社会の一員として生活できるようになっていくんです。 宮崎駿・庵野秀明…なぜ他作品との類似点がたくさんあるの? Credit: 2019「天気の子」製作委員会 まき 子供はお母さんと2人の世界、主観世界だけに留まっていては成長できないということですね。 「超自我」、つまり社会や現実をとりこまないと。 春井 そうなんです。 帆高は家出をして東京に来て、必死に仕事を探して「社会」に適応し、「超自我」を取り込もうとしていましたね。 実はこれと同じテーマを扱っているのが、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』なんです。 これも、転校でふてくされていた10歳の女の子が、湯屋での労働をすることで「超自我」を取り込み成長するという物語でしたよね。 まき なるほど。 そういえば『天気の子』は色々と似ている作品があると言われていましたが、特に話題になっていたのは『千と千尋』でした。 空からくるくる落ちるシーンなんかもそっくりですし。 春井 そういえばそうでしたね! 新海監督も意識してるのかもしれませんね。 そして逆に、「超自我」を取り込むことへの反発を描いているのが、庵野監督の『新世紀エヴァンゲリオン』なんだと思います。 まき ここでまさかのエヴァが来た(笑)。 わかりやすく反発していたイメージはないんですが、どういうことでしょうか? 春井 『エヴァンゲリオン』で「超自我」として機能しているのは、なんと言っても父ゲンドウですよね。 そして、その「超自我」の指令としてのエヴァンゲリオンに乗って使徒を倒すということです。 まき なるほど。 ゲンドウには確かに反発していましたね。 春井 そう。 シンジくんは「逃げちゃダメだ」と言いながらエヴァに乗るわけだけど、これは「超自我」を取り込んだことにはならないと思っています。 まき でも、シンジくんは結局エヴァに乗るじゃないですか。 しかもちゃんと使徒を倒してますよ? それでもダメなんてスパルタすぎるんじゃ…? 春井 でもその乗り方というか、どうしてエヴァに乗ったかという動機が重要なんです。 「超自我」を取り込んだ場合は、「自分しか地球を救えないのであれば、乗ろう!」「みんなを救おう!」となるはずなんです。 シンジくんはそういう感じじゃないですよね。 まき あ…言われてみれば…。 春井 「逃げちゃダメだ」は自我が自分に言い聞かせているだけのように感じます。 最初のシーンでは、ゲンドウの命令は拒絶しますが、綾波レイの傷ついた姿を見てエヴァに乗りましたよね。 それはやっぱり「超自我」を取り込むことへの拒否と取れるように思うんですよね。 まき 「綾波を助けたい」は、「超自我」を取り込むことの拒否なんですか? 春井 綾波はお母さんの遺伝子から作られたクローンでしたよね。 『エヴァ』の中では綾波=母なんです。 『エヴァ』の作品中にも綾波との融合から覚醒に至るみたいなシーンが結構ありますが、それは「母との融合」を表していると取れます。 そして「人類補完計画」というのも、さっきお話した「お母さんとボクだけの世界」、さらには、お母さんと一体だった子宮内に戻ることを表しているんじゃないかと思っています。 つまり『エヴァ』では、「超自我」を取り入れることによる成長よりも、「母との融合」=子宮回帰への欲望が強いように思うんです。 だから最初のシーンでは、シンジくんは「超自我」の声は取り入れず、綾波=母を救いたい、母と融合していたころに戻りたいという欲望からエヴァに乗ったと取れるんですよね。 まき なるほど。 そういえば、「私に還りなさい」って歌詞の名曲がありましたよね(『魂のルフラン』)。 あれも子宮回帰を示しているんじゃないかと言われていました。 春井 そうですね。 だから、 『エヴァンゲリオン』という作品は、「超自我」と子宮回帰の間で翻弄される自我の物語。 「超自我」を取り込まないで済む範囲での成長と葛藤のストーリーなんです。 主にアニメ版と旧劇場版での話ですが。 そして、 この宮崎駿と庵野秀明という2人の巨匠が築いてきた「超自我」との攻防の物語を、新海監督は『天気の子』でさらに発展させたと言えるんじゃないかと私は思っているんですよね。 新海監督が新たに組み込んだ「時代性」と「現代社会の実情」 Credit: 2019「天気の子」製作委員会 まき 自我と超自我との攻防戦かぁ…。 そういう視点で見ると、全く物語を見る視点が変わりますね。 その攻防戦、新海監督はどのように発展させたんですか? 春井 うん、新海監督は、そこに時代性と現代社会の実状を入れ込んできたと私は思っているの。 まき 時代性……そういえば、インタビュー記事で新海監督は、 2000年代初頭は「社会」の存在感が薄い時期で、それを意識する必要がなかった。 僕のつくるものがそういうものになってきているということは、僕がどうこうというよりもみんなにとって「かつてのように社会が無条件に存在し続けると思えなくなってきている」「社会そのものが危うくなってきている」という感覚があるからこそだと思っています。 とも言っていました。 これって、その時代性と関係あるんでしょうか。 春井 そうですね。 最初にあげたインタビュー記事でも仰っていたけれど、現代の日本社会の雰囲気を敏感に感じ取って、それを作品にしたんだと思います。 それを説明するために、ちょっと日本社会の意識変化についてお話してみますね。 まき もはや社会学じみてきましたね。 お願いします。 春井 まず、『エヴァ』が放送開始された1995年から『千と千尋』が公開された2001年くらいまでは、日本社会はまだ「自分軸」の時代だったのね。 まき 「自分軸」の時代? 自分勝手とは違うんです? 春井 字面的に間違えやすいけど、自分勝手とは違います。 厳密に言うと、1970年代から始まっているんだけど、その頃って、「自分探し」とか心理学がブームになっていて、ワイドショーとかでも心理学者や精神科医がコメンテーターをやっていることが多かったの。 宗教やオカルトブームとかもあってね。 95年にオウム真理教事件があって、宗教やオカルトは下火になるけど、2000年代初頭までは精神的に深く自分に入っていくのがカッコいいって時代だったんです。 まき そういえば、浜崎あゆみとか椎名林檎とかCoccoとか鬼束ちひろとかが流行ったのもそのころでしたね。 春井 そうですね。 他者よりも自分だった。 自分を押し出すほうがカッコいい時代。 それが、2000年代初頭以降、徐々に自己の価値が下がって、他者の価値が高まっていった。 現在は「他者軸」の時代になっていますね。 まき なるほど。 そういえば、今って自分を押し出すのはカッコ悪いとか、恋愛に夢中になることすらカッコ悪いという雰囲気もありますよね。 「自分軸=自分勝手」と思う人も多いように感じます。 春井 そう。 他者に認められることによって自分の価値を高めたいという風潮が出てきたんですよね。 ツイッターやインスタなどのSNSの流行もその流れ。 そうなると、最初にお話した「崇高なものとの同一化による自己肯定感」を得ようという力が社会全体で高まります。 まき 自分に価値がないとなれば、「自分じゃない崇高なもの」と同一化したくなりますからね。 そうなると、当然新海監督も言っていたけど、その基準に合わないものを叩くようになると…… 春井 そうなんですね。 今、日本社会はそういう時代に入っていると私は思っています。 同時に、先程お話した成長に必要な「よい超自我」、つまり客観性とか理想的人間像、弱者を助けるなどの価値は地に落ち、逆に、他者を規則や地位で評価し、コントロールしようとする「悪い超自我」が権勢を奮っています。 「崇高なもの(社会的正しさとか権威等)との同一化による自己肯定感」はこの「悪い超自我」を生み出します。 まき なるほど。 で、新海監督が発展させたというのはどういうところなんですか? 春井 それは、 現代の日本社会における「超自我」との向き合い方を描いたところじゃないかと思っています。 つまり、2000年代初頭以降の「他者軸」や「崇高なものとの同一化による自己肯定感」の時代における「超自我」との向き合い方ということです。 まき 現代の日本社会における「超自我」との向き合い方…… 春井 そう。 『エヴァ』が放映され始めた95年以前はまだ「超自我」の影響力が強かったんです。 70年代〜80年代は『巨人の星』『宇宙戦艦ヤマト』『北斗の拳』とか、マッチョで男性的な理想的人間像(超自我)を描くものが多かったんだけど、シンジくんは真反対ですよね。 だから、「超自我への反発」を描いた『エヴァ』は、「超自我」にウンザリしていた若者から絶大な人気を得たんじゃないかな。 「別に超自我の言うことなんて聞かなくてもいいんだよ」「君はそのままでいいよ」というメッセージになったんだと思います。 まき なるほど。 じゃあ今の時代の雰囲気も、前の時代があったからこそ次の段階へ進んだという感じなんですね。 春井 そうですね。 そこから「超自我」は徐々に影響力を弱めていくんだけど、2001年の『千と千尋』は、「いやいややっぱり超自我は必要だよ。 労働で超自我を取り込もう」というメッセージでした。 『千と千尋』では、「悪い超自我」は湯婆婆、「よい超自我」は銭婆で表されています。 千尋は、労働で超自我を取り込み、本当の自分を見つけるんですね。 まき ふむふむ。 宮崎監督も、超自我を2つに分けて描いているんですね。 春井 そうですね。 それを引き継いで新海監督も「よい超自我」「悪い超自我」を描き分けています。 というか、2000年代初頭以降の時代性を盛り込むには分けざるを得ないんです。 先程も言いましたが、現在は「よい超自我」が価値を落とし、「悪い超自我」が拡がっています。 『天気の子』ではその象徴が、社会に同一化して生きる冷たい大人たちであり、雨が降り続く暗い社会ということなのではないかと思います。 晴れ女である陽菜にとっては、降り続く雨というのは、そのまま自分を善悪の価値観で判断し、「晴れにすべき」と迫ってくる大衆の声そのものに見えるのではないでしょうか。 まき なるほど。 降り続く雨が陽菜にとっては、「悪い超自我」に見えるんだ。 陽菜が連れて行かれたのは「統合失調症的世界」 Credit: 2019「天気の子」製作委員会 春井 そうですね。 そういう「悪い超自我」や「他者軸」の時代に、私たちはどう生きるべきかというのが、『天気の子』のテーマなのではないかと思うのね。 まず陽菜を見てみると、前半、非常に他者軸の生き方をしているよね。 まき 確かに……お母さんが死んで弟を養うためにバイトして、風俗にも行こうとする。 晴れ女業も、弟と帆高のためという描写がありました。 春井 晴れ女業をすると消えてしまうと分かっても、帆高のためにと考えて自分を犠牲にしてしまうんですね。 そして、他者軸が極まると、天の世界、彼岸に連れて行かれてしまう。 彼岸とは、自分と世界が一体化した主観だけの世界と考えれば、精神医学的には統合失調症的な世界とも言えるかもしれません。 まき 精神医学的にいうと、陽菜は他者軸で生きすぎて、統合失調症的な感じになっちゃったということ? 春井 そうとも解釈できるかなと。 それを帆高に助けられ、戻ってくる。 そして、最後の帆高との再会シーンでは、もう晴れ女の力がないかもしれないのに、祈っている。 これは陽菜が他者軸ではなく、自分軸で、自分のために祈っているということなのではないかと思ったんです。 まき なるほど。 陽菜の物語は、他者軸の生き方から自分軸の生き方になる成長の物語なんですね。 春井 そうとも解釈できると思います。 Credit: 2019「天気の子」製作委員会 春井 そして、帆高の生き方にも、この「他者軸」「悪い超自我」の時代に私たちはどう生きるべきかということが少し違う視点でより詳しく語られています。 まき あら、帆高も? というか、そういえば主人公でしたね(笑)。 春井 はい。 むしろ帆高がメインで陽菜のストーリーが補足という感じですね。 帆高は、故郷の島から、おそらく両親とのいざこざがあって、東京に家出をしてきます。 これは先程お話した「危機」ですね。 そこから、なんとか社会=「超自我」を取り込んで生きていくために奮闘しますね。 これは「よい超自我」です。 その過程で、陽菜と出会います。 その陽菜と関わり合いながら晴れ女業を通して、絆を深めていくんですよね。 そこから、「超自我」との衝突が起こってきます。 まき 「超自我」との衝突? 春井 まず、晴れ女業がテレビで取り上げられ、依頼が殺到し手に負えなくなる。 テレビやマスコミというのは、集団の力、客観の力ですから「超自我」のうちに入ると思います。 そして、帆高が警察に追われる。 警察は「悪を取り締まる」組織ですから、そのまま「超自我」の機能です。 そして、陽菜と弟が子供だけで暮らしていることがバレて児童相談所の人が来る。 社会福祉施設というのも、社会が人々の生活を守る、改善するためのものですから、「超自我」ですね。 まき 帆高と陽菜は「超自我」とそんなに衝突してたんですね…。 春井 そこが、今までのセカイ系と違うところですよね。 「超自我」との衝突が起こる前は、おそらく帆高も陽菜も、「超自我」=社会的正しさに影響され、他者軸に寄っていたんじゃないかと思うんです。 でも、衝突を繰り返し経験した上に、「他者軸」「悪い超自我」の時代性=降り続く雨を改善しようと晴れ女業をすることで陽菜は消えてしまうんです。 まき なるほど。 春井 そこで、帆高は考えたんじゃないかな。 「超自我」=社会的正しさって何なの? これに従っていてなんかイイことあるの?って。 確かに「いい人」「社会的にきちんとしてる人」と思われたほうが気分はいいけどって。 それを経て、帆高は陽菜を救うために、「超自我」=社会的正しさを超えて、本当の自分の気持ちを優先させることを決心します。 まき 社会的正しさは生きる上で必要だけど、自分の気持ちの犠牲の上に立つものではないと。 春井 はい。 ここがきっとみんなが一番違和感を持つ場面だと思うんですが、これは、今までお話してきた 「崇高なものとの同一化による自己肯定感」を得たいという「自我の誘惑」に負けずに、本当の自分の気持ちを取ったということなんじゃないかなと私は思っているの。 まき あー、そういうことだったんですね。 簡単に自己肯定感を上げられる「社会的正しさ」を取り入れるだけの生き方ではなく、本当の自分の心の奥底から湧き上がってくる気持ちを大事にすることが大切なんだよというメッセージだと。 「超自我」を自覚すると『天気の子』は何倍も楽しめる Credit: 2019「天気の子」製作委員会 まき でも、まだちょっと納得いかないところがあります。 逆に、「そんな自分勝手なことしていいの?」ってなる気がするんですよ。 「ちょっとした天気の変化で健康が左右される人がいるのに、自分を優先させていいの?」って。 私もちょっとそう思いましたもん。 …あ、もしかして、 「超自我」に対する自分の態度で、『天気の子』を楽しめるか楽しめないかが決まってくるんでしょうか? 春井 そうかもしれないですね。 「超自我」の働きや「自我の誘惑」に自覚的かどうか。 帆高は、この場面で「自我の誘惑」「時代の誘惑」を振り切って、他者軸から自分軸に舵を切った。 このシーンは、2000年代初頭以降の「他者軸の時代」だからこそ意味があるシーンなんだと思います。 まき なるほど。 本作では、社会的正しさが他者軸の象徴であって、それは自分にとっては楽になれる誘惑でもあると。 この話を、「社会的に正しいかどうか」でなく、それを振り切って本当の自分を取り戻す話と見れるかどうか、ということでしょうか。 春井 そうですね。 この作品を観た人の「人間はどう生きるべきか」という問題の答えがどのようなものかによって、捉え方が変わってくるんです。 まき たしかに。 では、また『天気の子』のストーリーに戻りますが、帆高はそのあと陽菜を救いに行くわけですよね。 春井 そうですね。 帆高は他者軸から自分軸に移行することによって陽菜を救うことに成功するんですが、その後島に戻って保護観察処分を受け、高校を卒業します。 ここで、また「よい超自我」を取り込み成長するわけですね。 その成長した帆高が、再び陽菜と再会します。 まき 難しいな〜。 「よい超自我」は必要だけど、「超自我」に流されすぎて、同一化しちゃったらダメなんですね。 そこから「悪い超自我」が生まれちゃうと。 春井 そう。 帆高はそれに気づいたんだと思う。 でも、再び東京に戻ってみると、東京は湖のようになっています。 これは、「他者軸」「悪い超自我」の時代はそのまま変わっていないどころか悪化しているということを示しています。 時代性は帆高と陽菜という個人にはどうしようもないことなんです。 まき うわぁ元も子もない(笑)。 2人の世界がいくら救われても、本当の世界は救われないのか。 これはセカイ系ではないですね。 でも、とても時代性を表しているかと。 最近は温暖化が世界的に喫緊の問題とされているし、日本でも巨大な台風や異常気象が実際に起きていて他人事ではなくなってますよね。 そのような時代に、「自分軸」をどう捉えるのかということなんですね。 春井 ですね。 なので、 このような「他者軸」の生き方や「悪い超自我」に影響されやすい時代こそ、「法外のシンクロ」が大事になってくるよ、ということなんです。 「よい超自我」はきちんと取り入れた上で、自分軸で生き、本当の自分の気持ちとつながること。 そして、取り替えのきかないアイデンティティを確立した自己と他者の絆を大切に生きること。 それが、2000年代初頭以降の「他者軸」の時代を生きる私たちが大切にすべき生き方なんじゃないかな。 それが『天気の子』の表現したかったことではないかと私は思っています。 まき そうか、だから新海監督は「法外のシンクロ」をテーマにしたんですね。 「ファンタジーの皮をかぶった別ジャンル映画」が違和感の正体 Credit: 2019「天気の子」製作委員会 まき では、改めて最初の疑問に戻りたいと思います。 春井さんはみんなが感じた「違和感」の正体は何だったと思いますか? 春井 『天気の子』を観る前は、今までの新海監督の作品のような切なさとかノスタルジーとか相手を純粋に思う気持ちに感動したり、何らかのカタルシスを期待していた方が多かったと思うんですね。 でも、今までお話してきたように、 新海監督の今回の作品のメインのテーマはそこではなくて、「法外のシンクロ」や「超自我」「他者軸から自分軸」というものだったと思うんです。 ですが、このテーマは現代社会の実状や心理学的なことに関心がないと、一回観ただけでは分かりにくかった部分もあるのではないでしょうか。 そうじゃないと、帆高と陽菜が自分たちの気持ちを優先したために東京は水に沈んだままになっているのに、「僕たちは大丈夫!」と言われても「なにコレ?」となってしまいますよね。 まき なるほど。 視聴者はそこに違和感を感じてしまうんですね。 『天気の子』はファンタジーの皮をかぶった、ゴリゴリの社会派映画だったんだ。 …でも最後に一つ疑問が…。 先ほど、『天気の子』と『千と千尋』の共通点をお聞きしました。 でも、『千と千尋』では元の世界に戻りましたよね。 『君の名は。 』でもそうです。 でも天気の子は違うじゃないですか。 それは、やっぱり、この今の時代性というものを訴えたかったからなんでしょうか? 春井 そうだと思います。 個人ではどうにもならない「他者軸」の時代に、個人がどう生きるかということを表現するために、敢えて世界を水浸しのままにしたということじゃないでしょうか。 まき なるほど。 他者軸に振り回されずに、自分を生きることが大切だと。 春井 そうですね。 現在は、AIの技術や量子コンピューター、トランスヒューマニズムなどに人類の希望を見出している方が多いと思いますが、私はやっぱり、新海監督がいうように、 「法外のシンクロ」のその先に人類の未来があると思っています。 まき 「他者軸」の時代でも、「法外のシンクロ」があれば「僕たちは大丈夫!」ということですね。 春井 はい。 きっと「大丈夫」です。 Credit: 2019「天気の子」製作委員会.

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『天気の子』は『壊れたままの世界』で生きる若者へのエール〈新海誠インタビュー03〉

天気の子 エロい

「君の名は。 」は2016年に公開され、 最終興行収入は250. 3億円を記録した大ヒット作品です。 新海誠監督の名前が多くの人に知られた作品でもありますね。 ストーリーの展開的に「もう一度見たい!」という人が多く、何度も劇場に足を運ぶ人がいました。 そして、その次に公開されたのが「天気の子」です。 天気の子も 最終興行収入140. 6億円を記録し大ヒット! 2020年5月27日には待ちに待った円盤が発売されました。 「天気の子」は「君の名は。 」の続編というわけではありません。 前作の主要人物たちが登場するので世界線は同じではないかと考えられていました。 「君の名は。 」と「天気の子」は同じ世界線? では、一見同じ世界線に見える「君の名は。 」で三葉たちが住んでいた糸守町に落ちた隕石を連想させますよね。 このシーンを見て世界はつながっているんだと考えた人も多いのではないでしょうか。 公式パンフレットが触れた『パラレルワールド』 彗星の記事が掲載されている雑誌から、世界がつながっているようにも思えました。 このことについて、天気の子の映画パンフレット第2弾に掲載されている質問コーナーにはこのような表記がありました。 『天気の子』パンフレット第2弾。 瀧くんと三葉のことが書いてあった。 やはり君の名は。 とは違ったパラレルの世界らしい — もつれら mtmtsf Q. 『君の名は。 』の瀧くん、三葉ちゃん、四葉ちゃん、テッシー、サヤちんが劇中に登場しますが、劇中の時代設定は「ムー」の雑誌から予想するに2021年ですよね?ということは瀧くんと三葉ちゃんはまだ出会っておらず、来年の春に出会う予定ですよね。 でも『君の名は。 』では東京は水没してなかったので、この物語はパラレルワールドもしくはスターシステムを用いたと解釈してよろしいのでしょうか? A. 見事な考察です。 パラレルワールド___あり得たかもしれない別の可能性世界なのかなと。 また個人的に、再開する前の瀧と三葉の姿を見てみたかったという気持ちもあります。 たとえ想い人とはまだ再会できていなくても、人生や日常は当たり前に存在していて、笑ったり仕事をしたりしながら生活を送っている。 そんな様子を描きたかったんです。 「天気の子」公式パンフレット引用 はっきりと断言はしてないものの、パラレルワールドであることも否定はしていませんでした。 「君の名は。 では、改めて「君の名は。 」と「天気の子」の時系列をまとめてみます。 「君の名は。 」の時系列 2013年 三葉達の住む糸守町に彗星が落ちる 当時瀧は中2、三葉は高3 2016年入れ替わりが起き、 瀧と三葉が過去を変える。 2021年12月 瀧が就職活動。 三葉とすれ違い、テッシーとサヤちんが結婚式の話をしている。 2022年4月瀧が大学卒業。 三葉と再会する。 瀧が23歳、三葉が26歳.

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