愛染 かつら 歌。 愛染かつら(1962) : 作品情報

<愛染かつら・双葉山

愛染 かつら 歌

解説 川口松太郎原作を「千客万来」の富田義朗が脚色、同じく中村登が監督したメロドラマ。 撮影もコンビの厚田雄春。 1962年製作/100分/日本 原題:Flower in a Storm 配給:松竹 ストーリー 津村病院創立二十五周年祝賀の日。 看護婦高石かつ枝は皆にすすめられて余興に歌をうたった。 伴奏は津村病院長の長男浩三が買って出た。 これが縁で浩三とかつ枝は度々会うようになった。 浩三はかつ技に結婚を申し込んだが、かつ枝には亡夫との間に敏子という子供があるためと身分の相違とを思いあわせてためらっていた。 だが、誠実な浩三の熱意にうたれたかつ枝は、愛染堂の桂の木の下で堅い愛の誓を交わしてしまった。 しかしこのことは、名門・中田病院の令嬢と浩三を結婚させようとしていた家族の大反対にあった。 一番強く反対するのは浩三の妹竹子で、彼女はかつ枝を罵倒した。 窮地の二人は、浩三の先輩服部を訪ねて京都に身を隠そうとした。 その当日、敏子が急病に倒れたためかつ枝は約束の場所に行けなくなった。 割り切れない気持で、一人京都へ向った浩三は、服部の世話で大学の研究室で働くようになった。 服部の妹美也子は浩三に惹かれるものを感じ、何かと世話をやいた。 数日してかつ枝が服部の家を訪れた。 応対に出た服部は、かつ枝を誤解しているため浩三の居場所を教えなかった。 後日になって、かつ枝が訪れたことを知らされた浩三は急拠帰京。 かつ枝のアパートを訪ねた浩三は、彼女に敏子という子供があることを知って会わずに帰った。 数カ月が経過した。 浩三は病院に帰り、竹子の圧力でかつ枝は病院から姿を消していた。 そんなある日、新聞に「白衣の天使よりレコード歌手へ」という見出しで、かつ枝が自作の歌の発表会を歌舞伎座で行うということが報じられてあった。 津村病院の看護婦は歓声をあげて応援しようと約束しあった。 裏切られたとばかり思い込んでいる浩三は、看護婦の外出許可をおろさなかった。 だが、かつ枝の同僚・峯沢、若井から彼女の立場と事情を説明されて、すべてを了解した浩三は、看護婦達全員に外出許可を与えた。 発表会は盛会だった。 楽屋にかけつけた浩三に、かつ枝はだまってうなずくだけであった。 --翌日、愛染堂の前にぬかずく浩三、かつ枝、敏子の姿が見られた。 それは幸福に溢れたような、明るい姿であった。

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旅の夜風

愛染 かつら 歌

旅の夜風(愛染かつら)・西條八十 「旅の夜風」という曲を知っているかと訊ねると多くの人は知らないという。 では「愛染かつら」の曲は知っているかと聞くと、知っていると答える人が多い。 「愛染かつら」は昭和13年に大ヒットした松竹映画で、その「愛染かつら」の映画の主題歌が「旅の夜風」である。 西條八十が作詞し、萬城目正が作曲した。 歌は霧島昇とミス・コロムビア 松原操)とが歌った。 昭和13年頃の映画なら、私は知らないはずなのに、何故か「花も嵐も踏み越えて・・・」という一番の歌詞は知っている。 回りの大人達が唄っているのを聴いたのか、その後、何度かリメイクされた映画を見て知ったのか、放送されたテレビドラマで知ったのかは判らない。 この「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」の誕生秘話を西條八十は「あの夢この唄 -唄の自叙傳より- 」の中で書いている。 二三、「愛染かつら」 昭和十三年わたしが輕井澤に滞在してゐると、夕ぐれ コ(コロムビア)社のディレクター山内義富君が、突然東京から訪ねて來た。 手に一冊の謄寫版刷のシナリオを持ってゐた。 松竹で今度映畫化される川口松太郎氏原昨「愛染かつら」だつた。 そもそも山口君は、川口氏の言葉として、この「愛染かつら」が書かれた動機が、わたしの「母の愛」といふ謡からヒントを得たものであつて、どうしてもこれの主題歌は西條氏に頼んでもらひたいとあつたと傳へ、松竹でも會社でも吹込みを非常に急いでゐるので、唄はぜひ明朝までにレコード兩面書いてもらひたいとのことだつた。 わたしが記憶を辿ると、川口氏のヒントとなつたといふわたしの唄は次のごときものであつた。 晴れて逢へない母子(おやこ)ゆゑ 眞(しん)の夜中に逢ひにくる、 眞の夜中に出る月の やうに寂く逢ひにくる。 晴れて呼ばれぬ我子(わがこ)ゆゑ 眞の夜(よ)ふけにこの涙、 おなじ想ひか、さらさらと 往(い)つてまた來(く)る小夜時雨(さよしぐれ)。 その晩、わたしは山口君を萬平ホテルへ送つたが、無聊を慰めるべく晩餐を沓掛にちかい御狩場焼きと呼ぶ成吉思汗(ジンギスカン)料理へ招待した。 ところが興に乗じて飲み過ぎたものだから、その晩はたうたう何も出來ず、酔ひつぶれて寝てしまつた。 翌日、早朝に起きて、わたしはまづ壹本を一讀した。 山内君は朝八時の汽車で歸るといふのだから、否が應でも、二時間ばかりの間に、二つの唄をまとめねばならなかつた。 それに脚本が非常に感傷的であるのに、時代は日華事變の進展に伴ひ、個人的感傷を盛れる作品は許可せずといふ内務省の検閲方針であるから、これも程よく回避せねばならぬ。 わたしは、朝霧にふかく包まれた二階の書斎で、いろいろに思案をめぐらした。 と、ふと想いついた事は佐藤惣之助の行きかたであつた。 その頃詩人佐藤惣之助は、わたしに次いで、大衆歌に筆を染めてゐた。 當時のかれは、まだどこの會社へも専屬せずに、頼まれるまま、コロムビア、ボリドール、帝蓄到るところの作詞をしてゐた。 いつも着流しで下駄をぶらさげて、コロムビア文藝部へはいつて來た。 達筆でこだはりのない彼の唄は、特に古賀政男とのコンビでは大いに當りを見せてゐた。 (中略) いま、「愛染かつら」の歌詞を考へたとき、わたしは、ひとつ惣之助の手口で行つてみようと想ひついた。 さうして、直ぐ筆を運んでいつた。 旅の夜風 花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる途(みち)、 泣いてくれるな、ほろほろ鳥よ 月の比叡(ひえい)を獨り行く。 優しかの君、ただ獨り、 發たせまつりし旅の空、 可愛い子供は女の生命(いのち) 何故に淋しい子守唄。 加茂の河原に秋長 た けて 肌に夜風が沁みわたる、 男柳がなに泣くものか、 風に揺れるは影ばかり。 愛の山河(やまかわ)雲(くも)幾重(いくへ) 心ごころを隔つとも、 待てば來る來る愛染(あいぜん)かつら やがて芽をふく春が來る 讀んでみればわかる。 この唄の第一聯全體はまづ愛人と別れて京都へ行つた若い醫者の情懐を叙してまとまつてゐるとしても、「ほろほろ鳥」といふ言葉だ。 これがナンセンスだ。 こんな鳥は京都にはもちろんゐない。 この唄がひろく唱はれ出したとき、わたしはある未知のファンから送られた封書をひらいて驚いた。 その中には、「先生が『愛染かつら』で詠はれたほろほろ鳥といふのは、いつたいどんな鳥かと想つていろいろ訊ねたのですが、やつと動物園で發見しました。 ここにわたしが撮影したその寫眞を同封いたします。 記念に御保存下さい」といふ意味の手紙がはいつてゐて、その「ほろほろ鳥」の寫眞が出て來た。 見ると、それはとても大きな七面鳥に似た異形な鳥で、「南米産ほろほろ鳥」と傍書してあつた。 ところで、わたしが「ほろほろ鳥」と書いたのは、ここへうらがなしい鳴音(なくね)の鳥を點出したかつたからで、わたしはいろいろ考へたあげく、比叡山にほど遠からぬ高野山を聯想し、次いでそこに因みのある石童丸と刈萱道心の邂逅を想つた、琵琶湖の「石童丸」の中にある「ほろほろと鳴く山鳥の聲聞けば、父かとぞおもふ、母かとぞおもふ」といふ古歌が胸に浮んだので、それを「ほろほろ鳥」といふ名に具體化したのであつた。 参考:この「ほろほろと鳴く山鳥の聲」は「行基」の歌で「玉葉和歌集」には「山鳥のほろほろと鳴く声きけばちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ」とある。 (中略) (第三聯)この歌詞は吹込みの際、霧島昇が間違つて唱つたものだから、いよいよ珍妙なものになつてしまつた。 あとで、氣がついたディレクターから、「吹込み直させませうか?」と言つて來たが、テスト盤を聴いてみると、霧島の「沁みわたる」と唱つたはうが、言葉にハリがあつて聴きいいので、わたしはそのままにしておいた。 そにかく、こんな具合で、片面の唄は出來上つた。 次にわたしは大急ぎで、殘る片面の、ミス・コロムビア唱ふ「悲しき子守唄」を書き上げた。 さつそく淨書して机上にのせた途端、「つい寝坊しちまひまして」といいながら、山内君が大あわてで飛込んできた。 時刻は輕井澤發車までにキチキチであつた。 こんな風にして、早急に出來た唄だつたが、いざ吹込んでこれが巨匠野村皓將監督、上原謙、田中絹代主演映畫に挿入されると、たいへんな人氣で賣れた、賣れた、プレッスが間に合はないほど賣れた。 會社の話では、レコード總賣上數約百萬に達したとのことであつた。 (中略) ところで、この「愛染かつら」に附随して起つた想ひ出深い事件は、コロムビアの歌手霧島昇と、ミス・コロムビアこと松原操との結婚事件であつた。 (「西條八十「あの夢この歌-唄の自叙傳より-」271~279頁より).

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愛染カツラは縁結びの霊木として人気!北向観音に行こう

愛染 かつら 歌

概要 [ ] を代表するの一人であるが活動期間は(昭和37年)〜(昭和43年)と短い。 高石のリリースした作品には、所属時期によって特徴が見られる。 時代は戦前の歌謡曲のカバーと抒情歌的な作品、時代は青春歌謡、移籍後は脱アイドル・大人路線、といった傾向である。 ただ、全期間を通じて、、 、、調の曲、青春歌謡、抒情歌等、ジャンルが多岐に亙って総花的であり、このことが、結果としてファン層を絞りきれなかった一因にもなっている。 高石は、一年余り遅れてデビューしたとよく対比される。 だが、本業が東映女優でもあった本間が、早くからアイドル路線を確立させ若い男性中心に支持を得ていたのに対し、高石は戦前歌謡を知る年齢層をターゲットにスタートしながら 、結果的に対象を見極めきれずに終わった。 また、本間は現在、ラジオ出演などにより再びメディアに復帰して活躍しているが、高石は引退後(特に前半にカムバックした後の引退以降)、活躍の場がほとんど無い。 なお、9月に、高石、本間に加えて高田美和を含めた合同カップリングCD(詳細は後記「その後」「脚注」を参照)が発売されている。 来歴 [ ] 出身。 幼少の頃より童謡歌手としてテイチクで活躍し、(昭和35年)より万城目正歌謡音楽院で本格的に歌謡曲を勉強した(ちなみに、は、高石のデビュー曲「旅の夜風」の作曲者である)。 また、小学校5年生のとき、ある服飾雑誌の少女ファッション・モデルに応募して合格、このときの合格者の中に、小学校4年生だったがいたという。 (昭和37年)、「」の再映画化に際し、ヒロインの名前をとった歌手「高石かつ枝」募集に合格。 同映画主題歌「」でからデビュー。 この後、同曲でコンビを組んだと数枚のデュエット曲をリリースしている。 (昭和38年)、主演の東宝映画「林檎の花咲く町」に女子高校生の役で出演し、人気を確立した。 彼女が歌う同名の主題歌もヒットし、年末のに初出場した。 この年、華々しくデビューしたが学生服で出場、高石かつ枝もセーラー服で出場して話題になった。 この第14回紅白は映像が現存し、高石の歌唱シーンも含め全編がNHKBS-2でされている。 この年、十和田湖の乙女の像の完成にちなんで作られた詩人・による「湖畔の乙女」のレコード化が10年目にして企画され、高石かつ枝によりレコーディングされた。 佐藤春夫自ら指導するなど、コロムビアも力を入れた企画であったが、高石のクラウン移籍問題で中絶。 その後、「湖畔の乙女」は、によりリリースされた。 又、舟木一夫とのデュエットで「東京新宿恋の町」もレコーディング予定されていたが、同移籍問題で中止となり、結局舟木一夫単独で吹込まれ(昭和39年)4月コロムビアより発売されている。 (昭和39年)2月、、、、らとともに新興会社・に引き抜かれて移籍。 日本クラウン在籍の1年余の期間に16枚のシングルをリリースした。 これは、同年デビューしたのシングル発売枚数を上回り、北島三郎と並ぶ実績である。 だが、(昭和40年)6月、当時政財界をゆるがせた疑獄事件の渦中にあった吹原社長から自宅の提供や宝石の贈与、レコード5000枚の買い取りなどを受けていたことが発覚した。 6月23日、日本クラウンは契約破棄を通告し 、高石は一時芸能界から追放された。 その後、テイチクに移り(昭和40年)11月から(昭和43年)9月にかけて十数枚のシングルをリリースしたが、目覚しいヒットには恵まれなかった。 (昭和43年)、設備機器メーカー(現株式会社チャンピオン)の御曹司だった伊藤祐吉と結婚 、芸能界を引退した。 伊藤はプロ野球のの時代の同級生で、彼女のショーにゲスト出演した王の仲介があったといわれている。 長いブランクを経て、(昭和55年)に「女絵」を、また、(昭和59年)に中国残留孤児を歌った「風の子守唄」をコロムビアから出している。 その後 [ ] 芸能活動中断中も、司会の「」( 日曜20:00〜20:54)など、いくつかの番組にゲスト出演している。 また、懐メロ番組にも何度か出演し、「旅の夜風」を霧島昇とデュエットしている(1979年7月「夏の紅白大行進」、1982年12月「年忘れにっぽんの歌」など)。 彼女が準主演してヒットした映画「林檎の花咲く町」は、DVD化されていないため視聴は難しいが 、2008年9月にので放映された。 2010年9月17日にから、「青春スター 〜ときめきのヒロイン〜 本間千代子・高石かつ枝・高田美和」が発売された。 高石かつ枝の作品はコロムビア時代の40曲が収録されており、彼女初の本格CD-BOXといえる。 尚、今回のCDには、未発表作品7曲 が録音後47年目にして初公開されている。 主な作品 [ ] レコード [ ] シングル盤• 「旅の夜風」「悲しき子守唄」(1962年3月、コロムビア)デュエット:藤原良(A面) 原曲は霧島昇、ミスコロムビア(1938年)• 「愛染夜曲」「愛染草紙」(1962年6月、コロムビア)デュエット:藤原良• 「乙女の夢は赤い花」「アカシヤが好き」(1962年8月、コロムビア)• 「あゝロマンスの夢の国」(1962年9月、コロムビア)デュエット:藤原良 A面は五月みどり、中尾渉「桑名おどり」(桑名市観光協会の委託製作)• 「愛はほとばしる」(1962年12月、コロムビア) B面はコロムビアローズ「お姉さん泣かないで」• 「純情の丘」「湖畔のホテル」(1963年1月、コロムビア) A面原曲は二葉あき子(1939年)• 「林檎の花咲く町」「月の十和田湖」(1963年2月、コロムビア)• 「日の丸あげて」(1963年2月、コロムビア)藤原良、青山和子らと A面は神戸一郎他の「日本ばんざい」• 「沖縄よいとこ」(1963年2月、コロムビア) デュエット:藤原良 B面は畠山みどり「糸満かもめ」• 「水色の風が吹く朝」(1963年3月、コロムビア) A面は藤原良「今日だけの街」• 「うれしい頃は花いっぱい」(1963年4月、コロムビア) B面はコロムビアローズ「誰かが呼ぶから」• 「オリーブの島」「この花を誰に」(1963年6月、コロムビア)• 「」(1963年6月、コロムビア) デュエット:藤原良 B面は北島三郎、畠山みどり「東京五輪音頭」• 「私は言うの」(1963年8月、コロムビア) A面は高木たかし「湖畔に咲いた白い花」• 「永良部百合の花」 「島はたのしや」(1963年8月、コロムビア)• 「悲しみのタンゴ」「小窓に咲く花」(1963年10月、コロムビア)• 「感傷日記」「街かどの歌」(1964年2月、コロムビア) - 日本クラウンへ移籍 -• 「花の決死隊」「おとめの像」(1964年3月、クラウン)• 「夢見るころ」「箱根山」 (1964年3月、クラウン)• 「赤いすももの歌」「リボンと花とスラックス」(1964年6月、クラウン)• 「旅愁の丘」「白いページの初恋日記」(1964年8月、クラウン)• 「若いその日がやってきた」 (1964年8月、クラウン) A面は西郷輝彦「青空の下夢がいっぱい」• 「てんてこママさん」「そんな朝でした」 (1964年9月、クラウン) テレビドラマ「てんてこママさん」()主題歌• 「そよ風デイト」「雨の想い出」 (1964年10月、クラウン)• 「銀色のバレエ」(1964年11月、クラウン)(作曲,冨田勳) A面は守屋浩「スキーで行こう」• 「すずらんはあの時の花」「高原の人」(1964年12月、クラウン)• 「九十九島恋しや」(1965年1月、クラウン) A面は高木たかし「君の町」• 「南国エレジー」「えらぶ小唄」(1965年2月、クラウン)• 「としごろ」(1965年2月、クラウン) A面は柴山モモ子「娘の縁談」 日本テレビ「娘の縁談」主題歌• 「乙女の園よさようなら」「お姉さんママ」(1965年3月、クラウン)• 「スパットリンリン」(1965年3月、クラウン) 守屋浩と一緒。 A面は北島三郎「スポーツ音頭」• 「愛し子と共に」(1965年3月、クラウン) A面は若山彰「空よりも高く」• 「ロバータさあ歩きましょう」「ふるさとのロバータ」(1965年7月、クラウン) - 吹原事件でクラウンを解雇となる -• 「君の名を呼ぶ」「丘の上の白い校舎」 (1965年11月、テイチク)• 「涙の日記」「浪人小唄」(1966年1月、テイチク)• 「ここに花咲く」(1966年、テイチク) デュエット:浜田光夫 B面は浜田光夫「急げ巡航船」• 「大空を見つめて」「カトレアの花は咲いたけど」(1966年5月、テイチク)• 「日傘の中の恋人」「いつまでも愛して」(1966年6月、テイチク)• 「こっちを向いて」「クリスタルラブ」(1966年7月、テイチク)• 「ささやきのダンス」「花はふたたび」(1967年、テイチク)• 「二人だけの二人」「生命ある限り」(1967年2月、テイチク)• 「赤い灯の街角」「灯台の町」(1967年3月、テイチク)• 「あの人は、あの人は」「花の山脈」(1967年、テイチク)• 「涙を母校に」「鳩笛吹けば」(1967年4月、テイチク) デュエット:藤田功(A面)• 「東京駅でお別れしましょ」「さよなら桟橋」(1967年7月、テイチク) B面は日活映画「爆破3秒前」挿入歌• 「新大阪音頭」「そやかて好きやねん」(1967年11月、テイチク)• 「車いすの詩」「知らなかったわ」(1968年3月、テイチク)• 「あなたを求めて」「愛のめざめ」(1968年9月、テイチク) - 結婚により引退 -• 「女絵」「返してあげる」(1980年9月、コロムビア)• 「風の子守唄」「まごころ」(1984年8月、コロムビア) アルバム• 高石かつ枝・藤原良 愛唱集「旅の夜風」(1962年11月、コロムビア) シングルカットされていない「純情二重奏」 他8曲収録• 高石かつ枝 愛唱集(1963年2月、コロムビア)8曲収録 (リンゴの唄、初恋、十九の春、こでまりの花、悲しき竹笛、リンゴの花咲く町、あざみの歌、矢車草と初恋と)• 高石かつ枝 愛唱集 第二集(1963年、コロムビア)8曲収録 (アカシヤが好き、水色の風が吹く朝、オリーブの島、私は言うの、うれしい頃は花一ぱい、乙女の夢は赤い花、この花を誰に、湖畔のホテル)• 愛唱童謡集「ゆりかごの歌」(1964年6月、クラウン) (ゆりかごの歌、村まつり、七つの子、どんぐりころころ、春よこい、めえめえ小山羊、うさぎ、ちょうちょう、夕やけこやけ、雀の学校、ずいずいずっころばし、チューリップ、つき、仲よし小道)• 高石かつ枝 花の歌謡集(1967年、テイチク)12曲収録 (こっちを向いて、日傘の中の恋人、ここに花咲く、大空をみつめて、君の名を呼ぶ、花の山脈、ささやきのダンス、花はふたたび、カトレアの花は咲いたけど、いつまでも愛して、クリスタル・ラブ、あの人はあの人は) その他• コロムビアコロシート(ソノシート)「日の丸あげて」(1963年、コロムビア) 藤原良、青山和子、コロムビアローズと。 A面は面高陽子「バンザイ東京オリンピック」• クラウンミュージックグラフ(ソノシート)「かつ枝のあの頃この頃」(1964年6月、クラウン) シングルカットされていない「はまなす乙女」「青い星のワルツ」他8曲収録 映画 [ ]• 林檎の花咲く町(、) - 女子高生「池端真由美」• われら劣等生(、ワールド・プロ) - 女子高生「植竹寿美枝」• 「青春の言葉」より 風にきけ雲にきけ(、) - ナイトクラブの歌手• (、)(DVD有り) - 奈々 テレビドラマ [ ]• 第17話「梅里先生と笛」(1964年、)• 第114話「石こうと宝石」(1965年)• 第165話「太陽は誰のもの」(1966年)• (1966年、NET) - 梨花• (1967年、)第10話・ゲスト• 引退後の(昭和55年)と(昭和59年)に各シングル盤を出しているが、何れも単発的で目立った芸能活動は行っていない。 曲調や歌詞は演歌風なるも、高石の歌唱法には演歌独特の「小節(こぶし)」や「」といった手法はさほど多く用いられず、一般の演歌歌手のイメージとはやや異なっている。 特に、奄美・沖縄など琉球地方のものが多い。 その他、「花の決死隊」の樺太、「ああロマンス夢の国」の三重、「林檎の花咲く町」の青森など。 特にコロムビア時代は「旅の夜風」「純情の丘」などリバイバル曲のカバーが多かった。 もともと万城目正とのつながりがあり、公募の形態をとった出来レースとも言われている。 雑誌「平凡」(昭和38年11月号)にが掲載されている。 1965年(昭和40年)6月24日付朝日新聞(夕刊)によると、彼女の父、山崎前豊氏がクラウン社に呼び出され事情を説明するも受け入れられず、機会を見て真相を一般に公表したいと言ったという。 そして、同記事には、山崎氏は「親としての責任もあり、いい方へ子供を指導してやりたい。 」と語り、又、高石は、出演していたテレビ番組の共演者たちから激励され、そうした人たちの力も借りて芸の道に励みたいと言った旨の記述もある。 同年6月下旬から7月上旬にかけて発売された各週刊誌には、高石のクラウン解雇関係の記事が特別編集されている。 (詳細は、下記関連文献参照)• 「ヤングレディ」43年7月15日号「高石かつ枝が青年実業家伊藤祐吉氏 27 と結婚」 "疑惑の黒い霧"も今は晴れて……恋する人の胸に!• 映画会社保管のフィルムを借り出して自主上映することは一般に広く行われており特記する程のことでもないが、2005年(平成17年)に同映画のモデルとなった秋田県立(映画では「佐竹高校」)の創立96周年記念映写会にて自主上映されていることが、学校関係者のサイトに書かれている。 7曲とも全てに録音されたもので藤原良とのデュエットである「誰かと誰かの歌」を除き高石のソロである。 沖永良部新民謡で高石の他、、、等がレコーディングしており、(1963年12月31日)ではが同曲を歌っている。 オリジナルは、1939年(昭和14年)の松竹映画「」の主題歌で、のデュエットで歌われた。 主に活躍の場は結婚式や企業のイベントなど。 アメリカに在住する 次女 愛子と2012年(平成24年)iTunesよりデュエット曲「クロス・トゥ・ユー」を発売している。 関連文献 [ ]• 『月刊明星 昭和38年11月号』1963年11月• 『近代映画 昭和39年9月号』1964年9月• 『週刊平凡 昭和39年12月10日号』1964年12月• 『週刊女性 昭和40年7月7日号』1965年7月 - 本誌特報 クラウンとの契約を破棄された高石かつ枝• 『週刊平凡 昭和40年7月9日号』 1965年7月 - クラウンをクビになった18歳の純情歌手 真相と心境• 『週刊明星 昭和40年7月11日号』 1965年7月 - 特報 高石かつ枝の身のふり方• 『ヤングレディ 昭和40年7月12日号』1965年7月 - 高石かつ枝追放の真相と言い分• 『にっぽんの歌』 雪華社 1968年10月 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 高石かつ枝:キネマ旬報映画データベース].

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