織田信秀 家系図。 織田信成の家系図はほんとか嘘なのか完全調査!お気に入りのパンケーキのお店情報!

織田信長の家系図をわかりやすく解説!

織田信秀 家系図

はじめに 第1章 信長以前の織田一族 第1節 織田一族の系譜 第2節 尾張の守護代 第3節 勝幡織田家の擡頭 第4節 信長の父・信秀 第2章 信長の時代 第1節 信長の兄弟たち 第2節 信長の姉妹たち 第3節 信長の娘たち 第4節 長男・信忠 第5節 次男・信雄 第6節 三男以降の息子たち 第7節 連枝衆 第3章 勝幡譜代 第1節 「勝幡譜代」とは 第2節 津島衆・大橋家 第3節 津島衆・堀田家 第4節 傅役・平手政秀 第5節 乳兄弟・池田恒興 第6節 荒子城の前田与十郎家 第4章 古渡・末盛譜代 第1節 「古渡・末盛譜代」とは 第2節 佐久間信盛 第3節 佐久間盛政 第4節 柴田勝家 第5章 那古野譜代 第1節 「那古野譜代」とは 第2節 丹羽長秀 第3節 佐々成政 第4節 前田利家 第5節 鳴海村の山口家 第6節 岩崎村の丹羽家 第7節 宿老・林佐渡守 第6章 その他の清須譜代 第1節 「その他の清須譜代」とは 第2節 美濃出身・森可成 第3節 美濃出身・金森長近 第4節 美濃出身・堀秀政 第5節 羽柴秀吉 第7章 外様の家臣 第1節 外様の家臣とは 第2節 美濃衆・稲葉一鉄 第3節 大和衆・松永久秀 第4節 大和衆・筒井順慶 第5節 摂津衆・荒木村重 第6節 旧幕臣・細川藤孝 第7節 旧幕臣・明智光秀 あとがき 主要参考文献 非常に面白い 読む前は著者を知らず、経歴を見て多少警戒していたため驚きがすごかった。 織田の家臣団を出身地域別に、勝幡譜代、古渡・末盛譜代、那古野譜代、その他清須譜代、外様に分けて検証した本。 徳川家 非常に面白い 読む前は著者を知らず、経歴を見て多少警戒していたため驚きがすごかった。 織田の家臣団を出身地域別に、勝幡譜代、古渡・末盛譜代、那古野譜代、その他清須譜代、外様に分けて検証した本。 徳川家の譜代の家臣は岡崎譜代とか安城譜代とか分かれるのでそんな感じか。 内容は家譜類を多用し、谷口、和田(たまに横山)の本にも随所に賛否をいれたもので、しっかり検証されていて非常に良かった。 個人的には那古野譜代まではその先祖などにも言及していて特に良かった。 清須以降は先祖などは不明が多いため、通説を並べた感じ。 家臣団よりやはり気になるのは織田家の系図。 例のスケートタレント織田信成は信長の子孫を名乗っているが本当なのか。 信成の父親が公表した家系図によれば、初代を信長の七男織田信高としている。 そこから九代の信真 家臣団よりやはり気になるのは織田家の系図。 例のスケートタレント織田信成は信長の子孫を名乗っているが本当なのか。 信成の父親が公表した家系図によれば、初代を信長の七男織田信高としている。 そこから九代の信真までを掲げ、そのあと4代分も省略。 祖父を14代として現当主信治を16代にしている。 なぜ信真まで掲げているのか。 理由は図書館などで調べればたどり着けるからだ。 著者は全く信用していない。 信長の不肖の息子信雄の読み方はどうか。 「のぶたか」と読む作家が多いが、実は「のぶお」らしい。 ほとんどの作家は間違っているようだ。

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織田氏

織田信秀 家系図

織田信長の基本的な家系図について解説! まずはこちらの画像をご覧ください。 織田信長の曽祖父、織田良信から信長の孫にあたる秀信までの関係が分かります。 信長の曽祖父である織田良信に関する詳しい記述はありませんが、祖父にあたる織田信定は、織田家を戦国大名として発展させた人物と伝わっています。 また、信長の父となる織田信秀も優れた武将であり、斎藤道三や今川義元などとも戦を繰り広げた事から「尾張の虎」と呼ばれるほどの人物でした。 そして、大勢いる信秀の子の中でも嫡男の信長は大うつけ者として有名でしたが、父の信秀だけは信長を高く評価しており、生前から跡継ぎは信長と決めていたようです。 信秀から家督を継いだ嫡男・信長は、斎藤道三の娘・濃姫を正室として迎えることで父の代から領地争いを続けていた斎藤家と和解し、尾張統一へと歩みを進めたのです。 この濃姫ですが、なんとあの明智光秀の家系と繋がっているんですね! 濃姫の母・小見の方は光秀の叔母にあたるので、つまり濃姫は光秀の従兄弟ということです。 のちの本能寺の変を考えると何だか怨恨深いものを感じてしまうのは私だけでしょうか? また信長は、絶世の美女と謳われる妹のお市の方を浅井長政に嫁がせたりして勢力を拡大していくのは歴史ファンにとってはお馴染みですよね。 そして子の信忠、孫の秀信へと続いていきますが…その後の織田家はどうなったのでしょうか。 スポンサードリンク 本能寺の変後、織田信長の子孫はどうなったのか? 現在でも人気高い織田信長ですが、その死後の織田家についてはあまり知られていません。 信長の子供たちはどうなったのでしょうか。 まず、信長の嫡男・信忠は本能寺の変にて26歳で自害。 三男・信孝は次男・信雄によって自害させられ、豊臣秀吉の養子となった四男・秀勝も18歳という若さで病死。 主な活躍をした信長の息子たちはここまでですが、その一方で、元フュギィアスケート選手・織田信成さんは七男信高の家系だと言われています。 しかし、それを指し示す物証は残っておらず、その事実関係を実証するのは困難なようです。 その一方で、何かとお騒がせの次男・織田信雄の家系は明治時代までその名を残しています。 こちらの画像をご覧ください。 信雄には8人の男子がいたのですが、このうち4男で小幡藩主となった織田信良は娘を徳川家光の弟、徳川忠長に嫁がせた事で、国主並みの待遇をこの先長年受けることになりました。 その後、信良の家系は1828年に出羽国 今の山形県 天童藩に移封し、戊辰戦争で新政府に対抗した後、明治時代に入ると子爵になりました。 また、信雄の5男である高長は大和国 今の奈良県 に2万石の領地を与えられ、後に丹波の柏原藩へ移封。 この家系も明治時代になると子爵の位を授けられています。 織田信長の家系図からは、豊臣秀吉や徳川家康との繋がりも見て取る事が可能です。 こちらの画像をご覧ください。 画像の右上に信長の文字が見えますが、ここでのキーパーソンになるのは、信長の妹であるお市の方です。 お市の方と言えば、賤ヶ岳の戦いで秀吉に攻め滅ぼされた事で知られてますが、その長女である茶々は秀吉の側室となり、その間に嫡男である秀頼が誕生しています。 つまり、秀吉は信長の姪と結婚した事になるんですよね。 一方の信長と徳川家康の関係ですが、家康の3男、徳川秀忠が、こちらもお市の方の三女で茶々の妹である小督を妻に迎えています。 家康の息子と信長の姪が結婚したことになりますが、その後、この2人の間に生まれた千姫がなんと、秀吉と茶々の嫡男・秀頼に嫁いでいるのです! 婚姻関係により、この三英傑は親戚であったことになります。 今では考えられない家系図ですよね… いずれにしても信長の妹にして絶世の美女・お市の方が、この戦国三英傑のキーパーソンと言えそうですね! スポンサードリンク この記事のまとめ 織田信長の家系図についてご紹介しました。 信長の家系図を見ていくと、妹のお市の方を通して結ばれている秀吉や家康だけではなく、明智光秀や斎藤道三との繋がりも見えてきます。 信長の子孫は次男の信雄の家系が明治時代にまで残りました。 信長は一時期、信雄との親子の縁を切ろうとしたとも言われてますが、自らの子孫がその信雄の血を引いていると知った場合、どのような感想を抱くのかが気になりますね。 なお、以下の記事では 豊臣秀吉の家系図について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

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武家家伝_織田氏系図

織田信秀 家系図

家系図から見えてくるその人物像 「うつけもの」と呼ばれる 1534年、信長は 織田信秀の子として尾張国に生まれます。 幼名は 吉法師 きっぽうしと言いました。 尾張とは、現在の愛知県西部を指します。 当時の織田家は、岩倉織田氏と清洲織田氏の2つに分裂していました。 そして、尾張国もそれぞれが治める地域に二分されていました。 父の葬儀での信じられない行動 信長の父・信秀は、清洲織田氏に仕えていました。 織田信秀は優れた人物として知られています。 のちに息子・信長が倒すことになる今川義元や斎藤道三とも戦っています。 しかし信秀は流行り病にかかり、42歳の若さでこの世を去ります。 若き日の信長は父の葬儀の際、周りを大いにあきれさせます。 葬儀にはふさわしくない恰好で出席し、さらに抹香をつかんで仏前へ投げつけるという行動に出たからです。 一方、弟の信行はしっかりとした服装・マナーで葬儀に臨んだそうです。 そんな信長のことを見て、周囲は 「うつけもの!!!!!」 と呼びました。 しばらくして、それまで何かと信長を守ってきた 平手政秀 ひらてまさひでという家老は、生きていても仕方がないという理由で、腹を切ったと伝えられています。 自刃した理由は、他にも諸説ありますが、当時の信長は、かなり危険な人物であったことが想像できるエピソードでした。 尾張国を統一 そんな信長ですが、信秀の家督を相続します。 1559年一族の抗争の果てに岩倉城の織田信賢を破り、尾張を統一することになります。 父親の葬儀のときには、誰もが想像できなかったことでしょう。 有名な桶狭間の戦いの前年のことでした。 義理の父・斎藤道三を唸らせる 話を少し前に戻します。 1548年、信長は15歳にして斎藤道三の娘・ 帰蝶 きちょう( 濃姫 のうひめ)と結婚します。 父の信秀と斎藤道三が和睦したのをきっかけに、まとまった縁談でした。 16~18歳ころの信長は、馬術や泳ぎの訓練などには真面目に取り組んでいたようです。 しかし、問題なのはその身なりとふるまいでした。 先ほども、父・信秀の葬儀での問題行動をご紹介しました。 ですが、信長は普段から問題児だったのです。 服装や髪型は乱れ、素行不良。 なんと、歩くときは他人の肩にぶら下がっていたそうです。 これは想像の斜め上をいくエピソードですよね。 それらは、義理の父・斎藤道三の耳にも当然入っていました。 真偽を確かめるべく、道三は信長を呼び出します。 その道中の姿は、噂通りの「うつけもの」だったといいます。 しかし、道三との会見の際にはきちんと髷を結い、折り目正しい格好で出てきたといいます。 これには、さすがの斎藤道三も驚きを隠せなかったようです。 信長は常識を知ったうえで、あえて破っているということがわかるエピソードでした。 妹・お市の方とその3人の娘たち 信長の家族と言えば必ず思い出されるのが 妹・お市の方です。 お市の方は、近江の 小谷 おだに城主・ 浅井長政に嫁いでいました。 義理の弟・浅井長政を自害に追い込む そのため、浅井長政は信長と同盟関係にあったわけですが、のちに対立します。 長政は朝倉義景らと連合し、信長打倒を企てました。 そこで信長は、家臣の羽柴秀吉に小谷城を攻めさせ、自身も小谷城に入り、浅井長政を切腹に追い込みます。 お市の方は残された三人の娘とともに、助け出されました。 のちに、お市の方は 柴田勝家に嫁ぐこととなります。 そして、 賤ヶ岳の戦いで再び秀吉に攻められ、ついにお市の方は勝家とともに自刃することになります。 姪たちへは優しく接した またしても生き残ったお市の方の3人の娘は、成長し、それぞれ 秀吉・ 京極高次・ 徳川秀忠に嫁ぐこととなります。 長政の死後、娘たちは数年間、織田家に引き取られました。 その際、お市の方と娘たちへの待遇は とても良いものだったそうです。 なお秀吉の側室となったのは、あの有名な 淀殿です。 実の父親・義理の父、そして母親までを死に追いやった人物に嫁ぐ心中とは、いかなるものだったのでしょうか・・・。 きょうのまとめ 最後までお読みいただきありがとうございました。 家系図から見えてくる信長とは、.

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