豊臣 秀吉 天下 統一。 15豊臣秀吉|天下統一をはたした戦国大名|小学生へ歴史解説

豊臣秀吉

豊臣 秀吉 天下 統一

小田原征伐以後 豊臣秀吉による天下統一と言えば、関八州を支配していた後北条氏に対する 小田原征伐によって完遂されたという印象をお持ちの方が多いのではないかと思います。 後北条氏の旧領である関八州にが配されたことや、後北条氏の居城であった堅城・を豊臣勢の20万を越えると言われた大軍で包囲、圧倒的な力の差を見せつけてこれを降伏させたことで、秀吉の威光があまねく広がったことから、これをもって天下統一が成されたと見られがちです。 しかしこの後に、奥州の諸大名を完全に従えることになった交渉・軍事行動が 奥州仕置(おうしゅうしおき)と呼ばれる、本当の意味での豊臣政権の天下統一の総仕上げ事業でした。 小田原征伐 秀吉の奥州への介入は、天正13年(1585年)に先行して 金山宗洗を遣わしたことから始まりました。 宗洗の交渉の結果、天正16年(1588年)9月にはやが秀吉への臣従の意を示したことで、当初は交渉のみで順調に進んでいました。 秀吉は翌天正17年(1589年)1月に政宗に対して、同年前半における上洛を促しました。 しかし、その頃の政宗は秀吉への面従腹背の状態にあり、蘆名氏の領地である会津への侵攻を行っていました。 秀吉は自らの上洛の要請を黙殺した上、会津を攻めた政宗の行動を許さず、政宗が会津から兵を引かないのであれば、討伐軍を差し向ける意思を示しました。 同年11月、後北条氏が真田領を侵犯したことから、先に後北条氏の征伐が決定され、翌天正18年(1590年)に豊臣方の諸大名を従えた 小田原征伐が行われました。 同年7月、後北条氏は降伏しここに戦国大名としての後北条氏は滅亡することになりました。 宇都宮仕置 秀吉は天正18年(1590年)7月17日に小田原征伐の余勢を駆って、らと下野に進み、同年7月26日には宇都宮城への入城を果たしました。 ここへ関東や奥羽の諸将も集められて、一旦、 宇都宮仕置と呼ばれる処分が行われました。 秀吉が到着する前には、常陸の、陸奥北部のが先行して宇都宮へ入城しており、先ず南部信直に対する所領内の安堵がなされました。 続いて8月1日に佐竹義重に対して常陸を含む54万石の所領安堵が申し渡されました。 政宗は、前年に蘆名氏を破って150万石に迫る領国を保有していましたが、小田原征伐への遅参と、会津侵攻自体が豊臣政権の定めた惣無事令に反してい点を追求され、一部が没収されることになり約72万石の領地へと削減されました。 同年の8月に会津黒川城へ入城すると、以後は秀吉方の奉行を務めた が陣頭に立ち、鳥谷ヶ崎へと兵を進めました。 その地でさらに周辺の諸将を糾合すると、奥州仕置軍を編成して平泉まで侵攻しました。 こうして、一旦ほぼ 奥州全土の平定が行われました。 加えて長政は家臣らを代官に据えて占領した土地の管理を進め、豊臣政権の政策に沿う人材を配置し、検地を推し進めて支配を加速させました。 こうして奥州の統治の安定が一通り終了したところで、長政らの兵はその任を終えて散会・撤収しました。 豊臣政権の天下統一 こうして豊臣政権の奥州平定が完了し、それに伴い天下の統一も達成されました。 尚、この時に奥州の諸大名の処分として、まず小田原征伐に加わらなかった葛西氏、大崎氏は没収・改易となりました。 これらの改易された領地には、やなどの豊臣政権の大名臣が送り込まれ、新たな領主として統治を行いました。 奥州仕置は、比較的容易になされたように見えましたが、豊臣政権の統治が始まった後に 大きな問題が発生することになりました。 これは豊臣政権の統治方法への急激な移行から、奥州に点在した旧勢力の残党、また一応所領を安堵された大名においても、その進め方・やり方に不満が高まった結果と言えました。 葛西大崎一揆と九戸政実の乱 結果、改易となった葛西氏や大崎氏の旧領において大規模な反乱であるが発生しました。 続けて、などの反乱が奥州の各地で多発することになりました。 こうした一揆・反乱の頻発から、豊臣政権は再度、討伐の兵を派遣する殊になりました。 そうして、、らとその配下の旗本が出陣し、仙北一揆が制圧されました。 更に翌天正19年(1591年)7月、政宗をはじめ、、徳川家康らの兵によって、葛西大崎一揆が制圧されました。 最終的に同族内での内乱となっていた 九戸政実の乱は、豊臣秀次を総大将に据えた約3万の兵に、家康やらも出陣し、発生から1年以上かかってようやく鎮圧されたのでした。 この乱は かなり残虐な結末となったことでも有名です。 詳しくは 天を衝く 秀吉に喧嘩を売った男九戸政実 カテゴリー• 106• 351• 349• 1,410• 149• 807• 589• 169• 100• 177• 142• 134• 106• 559•

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15豊臣秀吉|天下統一をはたした戦国大名|小学生へ歴史解説

豊臣 秀吉 天下 統一

安土・桃山時代の武将で、織田信長の後をついで天下統一を成し遂げた人物。 元は農家の生まれであったが、信長に足軽として仕えて、木下藤吉郎と名のる。 その後、秀吉は機転の良さで信長に気に入られて出世していき、1573年、近江北部の浅井長政との戦いで活躍し長浜城を信長から与えられる。 その後、名を羽柴秀吉と改めた。 1582年、本能寺で信長が明智光秀の謀反により自害すると、中国地方で戦っていた毛利氏と和平を結び、すぐに京都に引き返して (中国大返しといわれている) 山崎の戦いで明智光秀をやぶって、天下統一の道を歩きだす。 その後、大坂城を築いて本拠地として、関白・太政大臣の位を得て豊臣秀吉と名のった。 そして四国・九州を平定し、1590年に小田原の北条氏を滅ぼし、東北地方を平定し天下統一を成し遂げた。 <練習問題>です。 目を閉じて下さい。 問題を読み上げ、続いて、1. 2. 3と数えたあとに、答えを読み上げます。 一緒にお答え下さい。 第一問 豊臣秀吉が、築いた城は何といいますか? 1. 2. 3 大坂城 第二問 豊臣秀吉が、天下統一を成し遂げたのはいつですか? 1. 2. 3 1590年 第三問 豊臣秀吉が、山崎の戦いでやぶったのはだれですか? 1. 2. 3 明智光秀 ありがとうございました。

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豊臣秀吉の天下統一までの道を解説!農民が偉業達成できた3つの理由

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豊臣秀吉 出典:Wikipedia 並みいる有力大名をおさえ、天下統一を成し遂げていく秀吉の、 類い稀なる能力とはどのようなものだったのでしょう。 その思考と行動力に着目してみていきましょう。 身分と初志貫徹力 戦国時代を天下統一へと引っ張っていく三英傑 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。 この3人のうち、信長と家康は大名の子、 、 秀吉は下層の 農民の子として生まれています。 信長は家督争い、家康は人質としての生活で苦労したとはいえ、生まれながらの武家。 秀吉の味わった辛苦は、比較できる種類のものではありません。 戦国の世において、大名同士が争うたびに農地が荒らされ住む場所を追われ、戦乱に巻き込まれて多数の死者を出すということが日常だったのです。 このような現実の中を生きる中で、 どうにかして戦乱の世を終わらせられないものか と秀吉は常に考えるようになります。 それと同時に、どんな状況下においても 「立てた志を貫き通す精神力」が培われていったのでしょう。 他の大名が、自分の有する勢力圏を守ることに囚われいたました。 それに対して失うものが何もない秀吉は、大きな視点で物事を捉え、羽を広げて飛び立つことが出来たのではないでしょうか。 的確な判断とスピード 物事を成就するのには、 実行のスピードが大きな要因となります。 しかも、そのスピードが的確な方向へ向けられていないと意味がありません。 秀吉の場合、主君、織田信長が本能寺において明智光秀に弑逆されたときにそれが発揮されます。 中国地方へ遠征に出ていた秀吉は、有力な信長臣下を差し置いて、わずか 「10日以内」で京に駆け付けました。 そして、信長の仇討ちを果たします。 以後、時代の鬼才、織田信長の偉業の後を継ぐものとして、勇躍していくことになるのです。 道半ばとはいえ、天下統一の基盤を作っていた信長の後を継ぐ機会を逃さなかった秀吉。 天下統一を成し遂げる最も大きな要因だったといえるでしょう。 人心掌握術 辛苦を味わいながら人生を切り開いていった人物には、他人の痛みがわかる人徳者が多く現れるものです。 出自において何も持たなかった秀吉が、織田信長の心をとらえて抜擢されます。 その後、数々の優秀な人材を配下にして、出世していく様は 「人徳による人心掌握の巧みさ」に他なりません。 何も持たないがゆえに、自分一人では何もできないことが身に染み、 周囲への気遣いの大切さを知っていたことが大きいのではないでしょうか。 人と人を取り持つ名人と言われた、実弟 「豊臣秀長」の存在も大きかったのですが、 天才軍師「竹中半兵衛」、 「黒田官兵衛」のようなブレーンを多く集めることができたのは、秀吉の天下統一には欠かせなかったといえます。 きょうのまとめ 貧しい農民出身の豊臣秀吉が、 天下統一を成し遂げるまでになれた要因で、絶対不可欠だったものは、次の3つでしょう。

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