ウエスト ミンスター 宮殿。 ウェストミンスターとビッグベン/イギリス [世界遺産] All About

ウエストミンスター宮殿|イギリス 世界遺産|阪急交通社

ウエスト ミンスター 宮殿

ウエストミンスター寺院に入ると12月24日クリスマスイブのミサが行われており、厳かに参加。 私が中学校1年生の英語の教科書に出てきた、あのビック・ベンにたどり着く頃には夕方になってしまい、下記のような写真になってしまいました。 といっても、夕方4時ともなると冬のイギリスはこんなに暗くなってしまいます。 司法、行政、立法の三権が最高裁、首相官邸、国会議事堂として、官庁街であるホワイトホールを囲んでいます。 ビックベンとして親しまれている国会がウエストミンスター宮殿にあることからウエストミンスターという言葉は国会の代名詞ともなっています。 日本なら永田町ですね。 ウエストミンスター寺院 歴代の王の戴冠式、結婚式が行われる。 エドワード懺海王がウエストミンスター宮殿を築いたのと同じ頃「聖ペテロ」を奉るためにウエストミンスター寺院も建立しています。 このとき、何故ウエストミンスターと名づけられたかと言いますと、、、 ウエストミンスター(西の聖堂)はイーストミンスター(東の聖堂)と区別するために名づけられました。 シティーにあるイーストミンスターは「聖パウロ」が奉られており、現在はとなっています。 11世紀〜16世紀は寺院+宮殿+議会、行政 簡単な歴史 7世紀・・元となる教会 1065年・・寺院権能式、エドワード寺院拡張、政治機関併設 エドワードからこの寺院に埋没多くの王室関係者の墓場その他政治家、詩人、無名戦士 18世紀からは墓場ではなく彫刻、現在は場所もなく床の石版に・・ 1245年・・ヘンリー3世より大きく現在の基を 世界でも有数のゴシック建築であり、内装たるやいつまで見てても飽きる事はないでしょう。 House of Parliament国会議事堂(元ウエストミンスター宮殿) ウエストミンスター寺院からミルバンクの道路を渡るとテムズ川のほとりに議会発祥の地イギリスを代表する国会議事堂がある。 1000室以上、長さ300m。 ウイリアム征服王によるノルマンコンケストの混乱を招いたエドワード懺海王が先代の城址に宮殿を築いたのが起源だそうです。 11世紀半ばに王の住い兼、議会の場として建築。 1529年ヘンリー8世まで王宮でした。 ヘンリー8世からハワイトホール宮殿へ 1834年大火、再建に名建築家チャールズ・バリー1870年に完成。 議会では 議長(スピーカー)と書記は昔ながらの長髪(かつら)?議会を見学する人を楽しませてくれる!! ?? 議員数よりも用意されているイスが少なく、遅く来た議員は立ちっぱなし。 ・・・遅刻者を無くすためか??昔の人口よりも増え議員数が多くなったにもかかわらず昔からの建物を保護するためなのか?? はたまた、採決が左右に移動して行うのも居眠り防止か??!!!!!!!! ディズニーの「ピーターパン」はこの時計の針にウエンディとおりる場面が確かありましたよね。 このビック・ベンの愛称は多種あるようですが、当時の工事責任者の愛称からという説が有力なようです。 高さ95m、時計直径7m、重量13. 5t、 1859年5月31日から休まずロンドンに時をつげる。 小さな鐘が15分後ごとに、大きな鐘がい時間ごとに 音楽はヘンデル(バロック音楽の巨匠)の「メサイア」編曲 VIKTORIA TOWER ビック・ベンが左側ならヴィクトリア・タワーが右側に位置する。 高さ104m 塔の中は議事録保存.

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ウェストミンスター寺院

ウエスト ミンスター 宮殿

セントラル・ロンドンの地図上でのウェストミンスター駅の位置 所在地 SW1A 2JR 行政区 運営 路線 サークル線 ジュビリー線 ディストリクト線 駅構造 ホーム数 4 バリアフリー 対応 ゾーン 改札外乗換 () 地下鉄年間乗降員数 2005 15. 731百万人 2007 18. 地下鉄の、およびが発着する。 当駅は ()にある。 概要 [ ] サークル線・ディストリクト線は線路・ホームを共有する。 ジュビリー線はこれらより深い地下を直交する地下駅である。 ()の直下、ブリッジ・ストリート()および ()()の交差点にある。 当駅は、(国会議事堂)からの道路と交差するに隣接する。 駅周辺 [ ]• 歴史 [ ] に、(MDR、現在のディストリクト線)が、から路線の最初の区間を開業させた際に開業した。 最初は「ウェストミンスター・ブリッジ Westminster Bridge 」の名称で開業し、にMDRがまで延伸開業するまではMDRの東の終点であった。 MDRはサウス・ケンジントン駅で(MR、現在の)と接続する。 両鉄道会社はライバルだったが、それぞれの会社の運行する列車が相手会社の線路をするインナー・サークル Inner Circle 系統の運行を行った。 その後、同様にMDRと他社の相互直通運転を行う、「 ()」がより、「」より運行されテンプル駅を経由する。 しかし、にはミドル・サークルが、にはアウター・サークルが、その運行区間を短縮され当駅まで乗り入れなくなった。 、の「ウェストミンスター・ブリッジ・ロード Westminster Bridge Road 駅」(現在の)との混乱を避けるため、現在の名称に変更された。 、新たにヴィクトリア・エンバンクメントからの脇出入口 side entrance が ()により設計された。 これは(およびの主な前身)のための建築家による最初のプロジェクトとみられている。 当駅はまた同じくホールデンにより設計され、1924~26年の間に開業した(現在の)のへの延伸および再建に使用された、緑色・青色・黒色そして白色のタイルによるタイル張りの設計に基づき、新たなタイル張りを施されて改装された。 、それまでメトロポリタン線の系統の1つの扱いであったインナー・サークル系統が「サークル線」として上で独立した。 その後、の一部として、当駅はの設計により完全に建て替えられた。 建て替えの間、旧駅舎の下に、広大な、39(127)の深い空間が、深い地下にあるジュビリー線のホームに至る・およびを設置するために掘削された。 これはロンドン都心部でそれまでで最も深い掘削となった。 技術者が直面した最も難しい問題のひとつは、サークル線・ディストリクト線の線路の周りを、列車運行を継続しながら建設することであった。 その線路は300(1フィート)下げられねばならず、毎晩の終電後の数時間の間に一度に数mmずつ下げられるという方法で実行された。 当駅はジュビリー線のどの駅よりも技術的な面で最も複雑であった。 そして、に新たに開業した。 同じ建築家による駅の上のポートカリス・ハウスは、駅の建設と同時に建設された。 古い駅舎は全て撤去された。 駅の設計は、の(RIBA)アワードに優勝し、またRIBAの権威あるの最終候補の地位を獲得した。 現在 [ ] ジュビリー線へのエスカレーター 駅は、「宇宙時代 space-age 」の様相を見せる、巨大なコンクリートの梁と円柱が製エスカレーターおよび階層と十字交差し large concrete beams and columns criss-crossed by stainless steel escalators and floors 、ジュビリー線延伸区間の他の駅と同様に荘厳な内装 an austere interior を有する。 構造的な補助はPortcullis Houseの重量を支えている。 また、ジュビリー線延伸区間の他の一般的な駅と同じく、ジュビリー線のホームには、気流 airflow を改善し、また安全性を高めるために、 platform edge doors,PEDs が設置されている。 ホームは地表面から約32m(104フィート)下にあり、ロンドン地下鉄網の中で最も深い位置にある。 建設場所が限られていたため、2本のトンネルは通常の並列した形ではなく、1本のトンネルの上にもう1本のトンネルがあるという形を採る。 その他 [ ] 当駅は映画「」に登場した。 ギャラリー [ ]• ジュビリー線へのエスカレーター バス路線 [ ] の3、11、12、24、53、87、88、148、159、211、453系統と、ナイトバスのN2、N3、N11、N44、N52、N87、N109、N136、N155、N381系統が当駅を経由する。 2015年6月3日時点のよりアーカイブ。 2016年3月14日閲覧。 London Underground station passenger usage data. 2014年. 2015年3月31日閲覧。 2010年6月11日閲覧。 2010年6月11日閲覧。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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【ロンドン】最もイギリスらしい地区!ウェストミンスターのおすすめ観光地5選

ウエスト ミンスター 宮殿

photo credit: via ウェストミンスターの地に初めて王宮が建てられたのは、11世紀半ば、懺悔王の名で知られるエドワード王の時代でした。 1529年にヘンリ8世が王宮をホワイト・ホールに移してからは、今日まで、国会議事堂として使われています。 旧来の建物は1834年の火災で焼失し、 1860年、現在の建物が完成しました。 イギリス議会は聖職者や貴族からなる上院と、選挙で選ばれた代表からなる下院で構成されています。 この二院制は14世紀半ばにはじまり、1547年からは上下両院が宮殿内にそれぞれ議場を持ち、議会活動を行うようになりました。 1642年1月、その議場で事件が起きました。 時の国王チャールズ1世が、兵を率いて下院議場に乗り込んできたのです。 1625年の即位以来、隣国スコットランドにイギリス国教会への帰依を強要し、戦火に発展させた王は、軍費を捻出するため不法な課税で国民を苦しめました。 これに反発した下院議会が、国王の悪政を204カ条も列挙した「大抗議文」を通過させたことに立腹した王は、 ピューリタン 清教徒 を中心とする主要議員の逮捕を求め議場に乱入。 だが下院議長は毅然として王の要求を退けました。 「ここでは議長といえども議会のしもべです。 私は議会の決定に従うだけです」 そして国王と議会の対立は内戦に発展。 ピューリタン革命です。 6年に及ぶ戦いの末、国王軍は敗れ、1649年1月、王は国民の敵とみなされ、斧で首をはねられました。 「この台は低い。 もう少し高い台をもて」。 これが処刑台から下した王の最後の命令でした。 以来、今日まで、イギリス国王がウェストミンスター宮殿の下院議場に足を踏み入れることは許されていません。 ウエストミンスター宮殿の再建 1834年に大半が焼け落ちたウエストミンスター宮殿の再建には、1840年から20年が費やされました。 設計案は公募され、97の作品から、イギリス建築界の第一人者チャールズ・バリーの案が選ばれました。 彼は宮殿の西に建つウェストミン スター大寺院内のヘンリ7世礼拝堂と の調和を優先し、ゴシック・リヴァイヴアル様式を採用します。 その特徴は窓の直線格子や尖塔に表れていて、モダン建築が主流の19世紀に、ゴシック様式の復活は大胆な試みでした。 豪華な内装を手がけたのは、やはりゴシック様式の復活を唱える当代きっての建築家オーガスタス・ピュージンでした。 彼は1100余りある部屋を結ぶ廊下を最短の全長4. 8kmにまとめ、廊下には聖人や歴代政治家の肖像画や彫刻を飾り、中央ロビーの天井には美しいモザイク画を配しました。 ロンドンのシンボル「ビッグ・ベン」 photo credit: via 宮殿の北端には、ロンドンのシンボル、 時計塔のビッグ・ベンが立ちます。 バリーに時計の知識がなかったため、ここだけは、宮殿とは別に、デザインと工法が公募されました。 そのため、ビッグ・ベンの建設着工は、宮殿の建設開始より12年遅れています。 遅れを取り戻すため、工事は昼夜を問わず進められました。 そして、5年後、時報を告げる大鐘を、地上64mの鐘楼に設置する日がやってきます。 ところが、宮殿の前庭で試し打ちをすると、鐘は二つに割れてしまいます。 この事故で時計塔の完成はさらに遅れることになりました。 そして、ついにビッグ・ベンの鐘の音がロンドン市内に響きわたったのは、さらに2年後の1859年7月11日のことでした。 当時の大鐘は、一日2回の標準時と照合されたため、時報の最初の鐘は標準時と誤差1秒以内に鳴るという精巧さでした。 ビッグ・ベンの鐘、長期間の停止へ 2017年8月21日、ビッグ・ベンの鐘を鳴らすことが停止されました。 期間は2021年までの4年間。 ロンドンの観光名所、議会議事堂の時計台はことし初めから修繕工事が進められており、1時間に4回鳴る「ビッグベン」の音が工事関係者の安全の妨げになるとして、大みそかなど特別な日を除き2021年まで停止されることになりました。 最後の音となった21日正午、日本時間の午後8時には、大勢の観光客や議員らが議会前の広場に集まり、「ビッグベン」が鳴り終わると拍手と歓声があがっていました。

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