月経 小屋。 昔の人はできていた……のか?「月経血コントロール」を検証する

むかしの女性はどうしていたの? vol.3 月経小屋って知ってますか

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通過儀礼と仮親 人の一生には、誕生・成長・成人・結婚・死など、いくつかの節目があります。 これは通過儀礼といい、人生の節目を無事に過ごせるよう祈願するとともに、個人の立場の変化を周囲に示す重要な場でもありました。 医療が未発達な時代には、子どもが無事に成長するのは容易ではなく、だからこそ、節目の通過儀礼を行うことで地域社会の絆を深め、その子の成長を多くの人々で見守ることが求められたのです。 そしてその象徴とされたのが、実の親以外の大人と義理の親子関係を結んだ「仮親」の存在です。 仮親とは、一人の子どもに数多くの親子関係を結ぶことで、その生命を保護し、成長を確実なものにしようとするしくみです。 誕生前~幼年期の仮親には、妊娠中に岩田帯を贈る 帯親 ( おびおや )、出産に立ち会う 取上 ( とりあ )げ 親 ( おや )(いわゆる産婆)、赤ちゃんを最初に抱く抱き親、生後数日間母乳を飲ませる 乳付 ( ちつ )け 親 ( おや )、子どもに名前をつける 名付 ( なづ )け 親 ( おや )、(両親の厄年に生まれた子が)丈夫に育つことを願って、儀式として道に捨てた赤ちゃんを拾いあげる 拾 ( ひろ )い 親 ( おや )、4、5歳になる頃まで子守りをする 守親 ( もりおや )などがあります。 古くから「7歳までは神のうち」といわれるよう、誕生した子どもの生命がこの世に定着することを願って、7歳ぐらいまでは数多くの儀礼が行われ、そのたびに仮親との親子関係が結ばれました。 一方、成年期以降に結ばれるのは、成人の際に男性にふんどしを贈る 褌親 ( へこおや )、元服に立ち会う 元服親 ( げんぷくおや )や 烏帽子親 ( えぼしおや )、女性に腰巻や 鉄漿 ( かね )付け道具(成人の証としてお歯黒を塗る際の道具)を贈る 腰親 ( こしおや )や 鉄漿親 ( かねおや )、婚礼の際に仲人を務める 仲人親 ( なこうどおや )などがあります。 幼年期とは異なり、成人儀礼はその子を一人前の大人として承認することが目的です。 一人前の基準は、地域や生業形態によって異なりますが、かつては一定の年齢(多くの場合、数え年の15歳)になった男女に、若者組(若衆組・青年宿とも)や娘組などと呼ばれる集団への加入が義務づけられ、結婚までの期間を仲間とともに過ごしました。 寝屋親の役割 三重県鳥羽市の沖に浮かぶ 答志島 ( とうしじま )答志町は、 寝屋子 ( ねやこ ) 制度とよばれる若者組の風習が現在でも残っています。 答志町では、男性は中学卒業とともに5~10人ほどで仲間(組)を作り、血縁関係のない仮親( 寝屋親 ( ねやおや ))の元で寝食を共にします。 そこに集う者は 寝屋子 ( ねやこ )とよばれ、長幼の序に基づいた人間関係に従って、礼儀作法や答志島の主な生業である漁業を軸とした一人前の大人になるための知識を深めるのです。 また、島では多くの若者が漁業に従事しますが、その場合、実の父親との関係が成人後は職業上の師弟関係となるため、若者に生じる両価的な感情や葛藤を寝屋親が受け止め、両者を橋渡しする役割を果たしていたといいます。 組の中で結婚する者が出るとその寝屋子組は解散しますが、寝宿を離れても、盆暮れの贈答行為や冠婚葬祭の出席など、寝屋親と寝屋子の親子関係は生涯にわたって続けられるのです。 女性の成長に寄り添う仮親 一方、女性の場合は、一定の年齢に達するか、もしくは初潮を契機に一人前とみなされ、その際、 鉄漿親 ( かねおや )や 腰親 ( こしおや )と義理の親子関係を結ぶなど、仮親の存在が重要であったことがうかがわれます。 仮親ならぬ、仮の姉妹関係を結ぶ地域もあります。 山形県の温海町(現、鶴岡市)の浜中地区では、数え年で13歳になった少女たちが組を作り、毎年暮れに稲藁のくじをひいて、同じ藁を引き合った者同士が姉妹の契りを結ぶケヤキキョウダイ(契約姉妹)とよばれる風習があります。 ここで姉妹となったものは、双方の冠婚葬祭に必ず出席するなど、生涯にわたる姉妹としての付き合いを誓い合うのです。 伊豆諸島は女性の成人儀礼を盛大に行う地域で、八丈島や青ヶ島では、昭和40年代前半まで、少女が初潮を迎えるとハツタビ(初他火)と称して、親族以外の仮親を任命し、ともに月経小屋へ籠もる風習がありました。 タビ(他火)とは、文字通り火を別にすることです。 古来より月経や出産に伴う出血はケガレとされ、火を介して伝播するケガレが家族に及ばぬよう、月経中や産後の女性が隔離小屋で過ごす風習がありました。 小屋に籠もっている間、少女は仮親から月経の手当方法をはじめ、一人前の大人としての礼儀作法や、機織りの技術、集落内の決まり事などを教わります。 また、初潮は島の繁栄につながる慶事とされていたため、月経を終えて小屋を出ると、少女の家に独身男性が招かれ、盛大な祝宴を催します。 この日のために、少女の両親は種々の貯えをし、祝宴に備えて着物を準備し、料理を整えました。 民俗学者の大間知篤三は、ハツタビは一生のうちでもっとも盛大といわれるほどの行事であったと報告しています。 その後、毎月月経のたびに小屋に行くのですが、その間家族から離れ、小屋に滞在している他の女性たちとともに煮炊きをして過ごします。 月経小屋での生活は、女性にとって、一見、不合理な習俗に思われるかもしれませんが、日頃の労働や家族の世話から解放されて身体を休める機会となり、時にはおしゃべりに興じたり息子の嫁探しの場となるなど、世代間の交流の場ともなっていたのです。 地域によっては、月経小屋と産屋を兼用しているところもあり、未婚の女性にとってもお産の様子や分娩姿勢、産後の養生法などを実際に見聞きする好機となっていたようです。 お産に寄り添うことの本質 ところで、お産に際し、仮親はどのような役割を担っていたのでしょうか。 ここで、先ほど紹介した伊豆諸島の最南端に位置する青ヶ島(東京都青ヶ島村)で、筆者が聞いた興味深い話を通して、お産に寄り添うということの意味を考えてみたいと思います。 青ヶ島では、昭和40年代半ばまでは、初潮を機に仮親との親子関係を結び、お産にも付き添うのが慣例だったと聞き、筆者は当時を知る女性たちに、お産の様子や仮親の役割について質問したことがあります。 仮親が具体的にどのようなことをしてくれたのか、出産を経験した女性に聞いてみると、島の女性たちは「産むのは私なんだから、仮親はお産の時に手出し口出しはしない。 側にいるだけだよ」というではありませんか。 特に、女性たちが自分の力で出産したということを自覚して、繰りかえし強調する様子が印象的でした。 一方、仮親を経験した女性も「お産の介助はしない」、「気をつけることと言えば、大きな音を立てないとか、産屋に人が入ってこないように見張ること」と話し、それ以外はお産の進行を静観するだけだったといいます。 実際に、青ヶ島でもケガレが重んじられているので、仮親は産婦と赤ちゃんには決して触れません。 取り上げも産後の処置も、全て産婦ひとりで行います。 すなわち、島の女性たちは、仮親の役割は産婦が出産に集中するための手助けをすることであるといい、仮親は産婦に触れることも、励ましの声すらもかけなかったというのです。 とはいえ、まったく何もしなかったわけではなく、仮親は、産婦の食事や湯茶の用意、囲炉裏の火や湿度の調整、産屋内の換気など身の回りのお世話をします。 興味深いのは、その際にお産の流れを邪魔しないよう、言葉を介さずに妊産婦が欲していることを察知して、先回りして世話をするということです。 ある仮親経験者は、「産婦を小さい頃からずっと見ていれば、いつのまにか彼女の考え方や欲していることがわかるようになるものだよ」と話してくれました。 つまり、ひとりの女性の一連の成長に寄り添った継続的な関係性が、仮親を務める女性自身の成熟をもたらすと同時に、産む女性は自らの力を信じて出産に臨み、お産に集中することで産む力が引き出されていたことがうかがわれるのです。 なかには気難しい仮親もいて、人間関係に支配されることもあったようですが、島という閉じられた空間でのゆるやかな拘束力や上下関係のなかで築かれる女性同志の絆が、身体的な同調をももたらし、医療のない時代の性や生殖の営みを支えていたといえるではないでしょうか。 幾重にも結ばれてきた仮親との義理の親子関係は、「人生の伴走者」として一人の人間の成長に寄り添い、一人前の大人になるべく自立を促すためのしくみでした。 母親以外の者が養育に携わるという点では、産後や育児に不安を抱える母親の増加が指摘される現代に大きな示唆を与えてくれるでしょう。 ただし、仮親は、母親の育児負担を軽減するための存在ではなく、むしろ、実の親子関係を阻害しないよう機能していた点も忘れてはいけません。 子産み・子育てしやすい社会を考える時、仮親のしくみに学ぶことは大きいようです。

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昔の女性は生理の時どうしていたの?今と昔の違い

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「」で、ネパールの差別的風習について述べました。 でも、この生理中の女性を隔離する風習は実は日本にも、つい近年までありました。 生理中の女性だけではなく、主産前後の女性も隔離するという風習です。 生理中の女性を隔離する小屋は、他屋 月経小屋の意 と呼ばれており、出産時に隔離する 小屋は、産屋(うぶや)と呼ばれていました。 (地域によっては、別の呼び名もあったよ うです。 生理・出産は出血を伴いますので、それを不浄・穢れとして捉え、別の小屋に隔離したの です。 この不浄・穢れ意識は平安時代にはすでにあって、人の死も「穢れ」として認識されてい て、当時の貴族は「死の穢れ」を大変恐れていました。 ですから身内から死者が出ると、その穢れを清めるために、外出は控えねばならないと か、お祓いもしなければならいとか、様々な取り決めがあって、貴族はもう大変でした。 現在でもその風習の名残があり、葬式から帰ったとき塩をまいて清めたり、「忌中」とい う札を張ったりしますよね。 科学が発達していない時代ですから、「死」は本当に怖かったと思いますね。 このように人の死を恐れる気持ちは現代人の私たちにもわかりますが、生理中の女性や出 産する女性を穢れ視するのは何とも理不尽なことです。 生理も出産も、赤ちゃんが産まれるためには必要不可欠なことですし、人間として当たり 前のことですから、差別的な穢れ視をするのではなく、むしろお祝いすべきことですよ ね。 実際に、現在でも女の子に初潮があればお祝いするし、赤ちゃんが産まれたときは家族一 同、大喜びです。 事故や戦争で出血すれば死に結び付くので、血液が出る現象を恐れてそれが穢れ意識につ ながったのでしょうか。 さて、私の拙い話はここまでにして、次の引用を読んでみましょう。 〈出典:ブリタニカ国際大百科事典〉 産屋(うぶや) 喪屋,他屋 月経小屋 などとともに穢れた者を社会的に隔離する小屋の一つで,出産時の女性を隔離するための小屋。 産屋には2種類あり,出産の場となるとともに産後しばらく家族とは別に生活する場所となる場合と,出産後に生活する場所のみの場合とがある。 村落単位で常設の産屋を設ける村が多かったが,出産後臨時に産屋を設ける場合や,また家族ごとに産屋を設ける村もあった。 産婦が産屋で生活する期間は村によって異なるが,三重県志摩地方のある村では初産は 60日,2回目以後は 40日と決められていた。 産屋はこのほかに山形,伊豆諸島,静岡,愛知,福井,兵庫や瀬戸内海沿岸地域に存在したが,比較的西日本の沿岸地域に多く分布していた。 しかし,病院での出産の増加や医学知識の普及に伴う穢れ観念の衰退によって,第2次世界大戦後急速に消滅した。 次の引用は、日本大百科全書 ニッポニカ の解説です。 産屋(うぶや) 出産および産後のある期間、産婦が別火 べっか の生活をするためにこもる小屋、または部屋。 ウブヤというほか、オビヤ、オブヤなどともいい、古代には出産にあたって新しく小屋を建てたという。 新潟県の佐渡ではいまでも「オビヤ(またはコヤ)たった」といえば、お産をしたということで、「猫がオビヤたった」といえば猫がお産をしたということである。 産屋の歴史は記紀の時代までさかのぼって考えられるが、産の忌みということは社会生活上重大な関心事であったことから、地方として忌みの観念の強い所では、のちのちまで産屋の習わしが残った。 たとえば漁を生業とする所、神事に対して厳しい潔斎を守らなくてはならない土地(たとえば由緒ある神社の氏子の地域)などには、現在でも産屋の伝承は残っている。 最近、とくに第二次世界大戦後は産の忌みの観念が急激に衰退したため、産屋を建てる例はもちろん、別棟の産屋の例も聞かれなくなったが、一部の地方には産院という別の観念で残っている所もある。 現在もなお、家庭で出産する場合には、一室を産室にあてて、多くは21日間産婦はそこから出ることを許されていない。 その間、火を使うことも、水を使うことも許されないが、社会の変遷でそんなことをいっていられないというのが実情となって、こういうところから忌みの観念に基づく産屋の民俗は消えようとしている。 産屋(うぶや) 産屋(うぶや) 大原の産屋は茅葺、切妻屋根、それをそのまま地面に伏せたような天地根元造という古い建築様式で造られ、神話の世界を思い起こすような佇まいです。 出産の折、十二把のワラ(閏年は十三把)を持ち込み、出入口に魔除けとして古鎌を吊り、七日籠って出産していました。 この習俗は大正年間まで続き、また、産後三日三夜籠る習慣は昭和23年頃まで続いていました。 現在は利用されなくなりましたが、 産後に身体を休めた安息の場所であるこの産屋を地元では大切に守っています。 また、安産の神、大原神社の信仰の源として多くの人々に愛されています。 全国に残る数少ない産育習俗を伝える文化財として昭和60年に京都府指定有形民俗文化財に指定されました。 大原神社 大原神社 大原神社は仁寿2年(852)の創建と言われており、三丹地方では唯一豪壮なつくりです。 社名の冠に「天一位」とつくのは、京の都より天一位の方角(乾の方角)を示しており、都の乾を守る神として創建されたのではないかと考えられています。 現在の本殿は寛政8年(1796)に当時の綾部藩主九鬼氏の庇護により再建されたものであり、当時の宮大工の精巧な技術をここかしこと垣間見ることができます。 本殿をはじめとする、幣殿、拝殿、摂社火の神神社、摂社水門神社、絵馬殿は昭和59年に京都府指定文化財に指定されました。 社務日記には愛媛宇和島藩主世子の安産祈願を始め公家や藩主の参拝や代参が送られた記録も残されています。 最近の投稿• カテゴリー• 4,142• 3,013• 612• 362• 139• 354• 700• 126• 104• 106• 268• 176• 152• 180• 164• 11 ブログ村ランキング 黒門も今まで地元民見捨てて観光客向けに鞍替えしやがった癖に 今さら何をムシのいい事言ってるのか?ふざけんな! アーカイブ• 752• 561• 726• 651• 539• 380• 388• 188• 136• 103•

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江戸時代の女性は生理のときどのように処理していたのか?

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現代においては、子宮から排出された経血はナプキンなど生理用品で受け止めるのが、ごく一般的な処理法です。 でも、おまたぢからのあった時代には、経血を膣内にとどめておいたり、子宮内膜がはがれる感触を察知して、 トイレで一気に出すことが可能だったというのです。 女性の周りにはそんなトンデモ級なスピリチュアル的健康法、美容法がゴロゴロと存在しています。 経血コントロールもそのひとつ。 『』(KKベストセラーズ)では、著者の山田ノジルがその真偽に迫ります。 「 昔の女性はみんな、経血をコントロールできていたんです」 マジか。 イヤイヤ、そんな機能がデフォルトだったのなら、 なぜ生理用品が古くから存在し、現在ここまで進化してきたのでしょう。 「和装時代は下着をつけていなかったので、股をギュッと締め経血が流れ落ちないようにする筋肉の使い方が、 自然にできていた」 「今のように便利な生理用品がなかった時代は、粗相をしないように 自然と股に力が入っていた」 「 現代女性は体を使わない生活で、骨盤底筋の力が衰えている。 だから、経血コントロールができなくなっている。 若い女性のあいだにも、尿漏れが増えているのがその証拠」 そして…… 「 女性が本来持っていた、在るべき力(経血コントロールができる力)を取り戻しましょう!」 ムリでしょ。 骨盤底筋の衰えにより、若い女性でも尿漏れに悩まされる人が増えているのは事実ですが、だからといって 昔の女性が経血コントロールできていた証拠にはなりません。 世の中には人間ポンプや柔軟芸のように特殊な身体能力を身につけた人は確かに存在しますし、蛇女が鼻から喉へと蛇を通していたように(@昭和の見世物小屋)、ある程度気合で習得できるものもあるでしょう。 ですから、経血コントロールができる女性がいた可能性はもちろんゼロではありません。 しかし、昔の女性なら「当然できていた」とまで言われてしまうと、パラレルワールドや異次元の話に聞こえてくるような。 江戸時代の人々/喜多川歌麿、1800年、メトロポリタン美術館所蔵 ところが、歴史研究家の原田実氏によってひとつひとつ検証された結果、 「江戸しぐさはデマ」と暴かれたのです(参照『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』星海社)。 経血コントロールも、全く同じ問題を抱えています。 しかもそれらの問題に加え、 より快適に便利にという現代女性の生活を、退化させかねません。 生理期間は常に経血が漏れないよう気を配り、こまめにトイレに行って出せ、というのですから。 江戸しぐさと経血コントロールには 「そんなにいいものなら、なぜ現代に伝わらなかったのか?」という共通の疑問点もあり、その理由とされているお説がどちらもぶっとんでいます。 江戸しぐさは「幕末から明治にかけて江戸っ子狩りが行われ、勝海舟が一部を地方に逃がした」と主張。 経血コントロールのほうはどうでしょう。

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