椚みなと 本名。 装甲悪鬼村正

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椚みなと 本名

始めて自分が日本の地名を問題にしたのは、この本の中にもある 田代 ( たしろ )・軽井沢であった。 田代がどこに 往 ( い )ってもかなりの山の中にばかりある理由が何かあるらしく思われたのが元であった。 算 ( かぞ )えてみるともうその頃から、優に三十年を越えている。 三十年もかからなければ一冊の本も出せぬような、大きな研究項目ではもちろんない。 むしろあまりに小さくかつ 煩瑣 ( はんさ )なる仕事であるがゆえに、多くの人がこれに入ってみようとしなかったのである。 私は境涯と資性と、ともにおそらくは誰よりもこれに適していると信じたので、さまでの努力を要せずに自身衆に代ってこの労務に服せんとしたのであるが、それでもなお中途幾たびとなく休息し、また往々にして決意の 撓 ( たわ )むことを免れなかった。 今頃これくらいのものを 纏 ( まと )めて世に問うことは、少なくとも内に省みて自ら責むべきものあるを感ずる。 我々の仲間では、問題解決の主要なる動力のいつでも外にあることを認めている。 いかに不退の熱心をもってじっと一つの不審を見つめていようとも、いまだ時到らずして依拠すべき若干の事実が見つからない限りは、その疑惑はなお永く続かなければならぬのである。 各人の刻苦の効を奏する 途 ( みち )は、練習によってできるだけ敏活に、必要な知識の所在を突き留め、またその一片をも無用に放散せしめず、それぞれの役目を果さしめるより他にはない。 そうしてこの間における学問の楽しみは、不十分な資料によってかりに下したる推断が後日これを検してまさしくその通りであったのを知ること、及び問題を 愚痴 ( ぐち ) 雑駁 ( ざっぱく )なる附随物から切り離して、最も簡明また適切なる形として他の同志に引き続ぐことにあるのである。 自分などもただこれを温かい日の光と仰いで、広い野外にひとり働いていたのであるが、年を取るにつれてこの心持が少し変って来た。 まことこの問題が次に来る日本人にとって、必ず究明せられねばならぬ好い問題であるかどうか。 今日の仮定説の果してどの部分が、 中 ( あた )らなかったねと言って笑われることになるのであろうか。 それがだんだんと心もとなくなって来るのである。 この際に当ってわが山口貞夫君が、自身この『地名の研究』の全篇を精読せられたのみならず、これを総括して改めて世に 遺 ( のこ )すことを 慫慂 ( しょうよう )せられ、さらにその整理校訂の労までを引き受けてくれられたことは、自分としては抑制しあたわざる 欣喜 ( きんき )である。 望むらくはこの少壮地理学者の判断と趣味が、やや多数の新時代人と共通のものであって、必ずしも好むところに偏したものでなかったことを、この書の寿命によって証明するようにしたいものである。 地名は数千年来の日本国民が、必要に応じておいおいにかつ徐々に制定したものである。 その趣意動機の千差万別であるべきことは始めから誰にでも 判 ( わか )っている。 それをアイヌ語ならアイヌ語のただ一側面ばかりから説こうとすれば、かりに論理は誤っていないにしても、なお脱漏がありまた強弁があることは免れない。 私の地名解は年数が永いだけに、自分の知識のいろいろの段階が 干与 ( かんよ )している。 ある時は旅行で得た直覚、またある時は方言や 口碑 ( こうひ )の比較の間からも暗示を得、中にはまた文庫の 塵 ( ちり )の香の紛々と鼻を 撲 ( う )つものもなしとしない。 前後に幾多の態度の矛盾があるが、それはまた地名発生のいたって自由なる法則とも相応している。 その上に根本において、これを設けなしたる人生が、終始裏附けをしているという一点だけは、忘れぬように心掛けていた。 その人生を明らかにすることが、実は地名を研究する唯一の目的ということも、見落してはおらぬつもりである。 だから一部分の失敗によって、この巻の全部の意義を、揺がされるような懸念はないと思っている。 郷土の昔の姿を知ろうとする人々には、前駆者の 蹉跌 ( さてつ )もなお一つの経験となるであろう。 従うて著者は決して満幅の信頼を期待してはいない。 むしろ 犀利 ( さいり )なる眼光をもってこの書の弱点を指摘せられる読者の、できるだけ多からんことを熱望しているのである。 三年ばかり前のことであった。 山上氏の手紙の中に、確か 神保 ( じんぼう )氏の話であったかと思うが、日本の地名には意味の不明なものがはなはだ多い。 アイヌなどとは大いに違うと平生いっておられるということを聞いた。 この一言は予にとっては感謝すべき 刺戟 ( しげき )であった。 又聞きであるからもちろん趣旨を間違えているかも知れぬが、自分はこの言葉をこう解した。 日本内地における地名の大多数は、今まで学者先生の研究ではまだ説明することができないものが多い。 これをだんだん研究し説明して行くならば、将来地理学上・言語学上むしろ広く文化史学上に大なる利益があるであろう。 おそらくはこういう意味かと解釈した。 申すまでもなく地名は人の附けたものである。 日本の地名は日本人の附けたものである。 前住民が附けたとしても少なくとも 吾々 ( われわれ )の採用したものである。 新たに附けるのも旧称を採用するのもともに人の行為である。 すでに人間の行為であるとすれば、その趣旨目的のないはずはない。 近世のいわゆる風流人の中には退屈の余りに、何々八景とか何々十二勝とかいう無用の地名を作った人もずいぶんあるが、未開人民にはそんな余裕がない。 すなわちもともと人の必要から発生した地名であるとすれば、人間生活との交渉が何々八景・何々十二勝よりもいっそう痛切であるべきはずである。 またかりに前住民の用いたものを踏襲したとしてもその相続は吾々が野原で矢の根石を拾うなどとは事変り、幾度か耳に聞いてこれに習熟しなければならぬ。 すなわち二個の民族が同じ土地に 共棲 ( きょうせい )しておったことを意味するのである。 非常に重大なる史実を傍証するものである。 語を換えていえば、意味がないという事実は、とりも直さず大なる意味を含んでいるものといい得るのである。 しかしながら、国民も個人と同様に、年を取ると物忘れをする。 今ここに吾々が 僅々 ( きんきん )百部内外の古書、『日本紀』とか『古事記』とかの古い書物を持たぬとすると、千年以前の日本人の生活の中で、今日吾々の記憶し自覚し得るところのものは果して 幾許 ( いくばく )であろうか。 しかもその世に遺っていた古書とても決して普遍周到な全国民の記述ではなかった。 社会の上層下層に平均してはおらぬ。 いわば都会に濃厚で 田舎 ( いなか )に 稀薄 ( きはく )であること、昔は今よりもいっそう甚だしいのである。 ゆえに昔は最も通俗の日本語であったのを、吾々がとんとどう忘れをしているものがあるかも知れない。 従って一つの地名が一見して意味が分らぬといっても、すなわち自分の所有物と言う記憶がないからといっても、これによってただちに 他所 ( よそ )からの借物であると断言することは、注意深き 老翁 ( ろうおう )のあえてなさざるところであると思う。 しかるに現代語ですら解釈のできる地名さえ、とかくよそからの借物と認めたがる人の多いのは不思議な現象である。 自分は永田方正氏の『 蝦夷 ( えぞ )語地名解』を熟読した。 なるほどアイヌの地名の附け方は単純にして要領を得ている。 彼等は長い地名をも意とせずに附けている。 十シラブル十五シラブルの地名を無頓着に用いている。 これに反して吾々の祖先は、 夙 ( はや )くから好字を用いよ 嘉名 ( かめい )を附けよという勅令を 遵奉 ( じゅんぽう )して、二字 繋 ( つな )がった漢字、仮名で数えても三音節、ないし五六音節までの地名を附けねばならなかった。 そのために元来はさほど 下手 ( へた )でなくても、いかにも 痒 ( かゆ )い所に手の届かぬというような、多少 謎 ( なぞ )に近い地名の附け方をするようになったのかも知れない。 たとえば横田という地名がある。 それは何の横にあるのかまた田地が横に長いというのか分らぬ。 つまり主たる語を二字とか三字とか合わせただけであるために多少 曖昧 ( あいまい )な地名が多くなった。 日本の地名の意味が分りにくいのは、一つは法令の結果だろうと思う。 しかしながら二種の民族の地名の明不明は、決してそう無造作な理由のみで説明することはできない。 もっと根本的の理由がなければならぬ。 試みに彼と此とを比較してみるに、第一に考えねばならぬのは地名の数である。 もちろんアイヌの地名は永田氏の著がその総目録ではあるまい。 がとにかくにその広い面積に割り当ててもきわめてわずかのもので、しかもその中には驚くべき類似と重複とがある。 これに反して内地の方の地名の数はこれに数百千倍している。 何山とか何川とか言う山川の名前は別として、単にある一定の地域に附与せられた名称のみでも四十六府県七十市五百余郡のほかに、いわゆる新町村の数がまず一万二千、その町村の 大字 ( おおあざ )が多い町村と少ない所とあるが、明治十九年の表によるとだいたい十九万はある。 その他に東京、京都のごとき大市街の町の数が約一万ある。 右の十九万の町村大字はすなわち以前の村であって、さらにこれが 字 ( あざ )に別れている。 字はごく概括的の話をすると多い村には一箇村に百ぐらい、少なくても三四十を下る所はないのである。 ほぼ平均五十と仮定しても全国に約百万の字があるのである。 その字の下には地方によっては小字がある。 それがまた一つの字に五つも六つもある。 あるいはもっとある所もある。 また小字を 中字 ( ちゅうあざ )と名づけ、さらにその下に十くらいの小字のある地方もある。 これら地名の数はもちろん人口の多少と比例しているものであろう。 北海道には事実上の人跡未踏の地が今日でもあるということだが、内地では富士山の絶頂までもいずれかの町村の大字に属している。 ゆえにかくのごとく多いのである。 しかしなお別にまだ有力な理由がなければならぬ。 それはいうまでもなく土地利用の状態いかんである。 たとえば定住産業に従事せぬ人民は土地を区劃する必要がないので、土地の命名は等しく生活の必要に基くとしても、狩猟や採取またはそのための旅行の目的のみに土地を使用している者には、地名を附ける必要は単に目標用である。 甲の地と乙の地とを区別しておけばそれでよろしいのである。 これに反して一段進んで定期の占有を必要とする職業、たとえば林業・農業等に従事する者に至って、初めて細かな地名を附けて、忘れないでおくという必要が生ずるのである。 従って第二に考えなければならぬことは、命名の目的の複雑さということである。 一例を言うなら同じ一つの谷川の落合でも、猟のためにその附近に出掛けるくらいの者であれば、これに 川合 ( かわい )とか 川俣 ( かわまた )とかいう簡単な名を附けておけばよろしい。 数の観念がこれに加わっても一ノ沢・二ノ 俣 ( また )というような名で済ましておくのである。 またもう少し観察力が細かくなったところで、その 辺 ( あたり )の草木に注意して三本松とかウルイ沢くらいの名を附けておけば十分である。 それが今一段進んでその辺で炭を焼く、石灰を焼くとかいう段になるとそれでは済まぬのであるいは炭焼沢であるとか灰谷であるとか七之助 竈 ( がま )であるとかいう名を附ける。 次いで 権兵衛 ( ごんべえ )なるものが来て 切替畑 ( きりかえばた )を作るようになると、権兵衛切、権爺作り、権ヶ 藪 ( やぶ )などの名が起ろう。 また川を渡るのに初めはびちゃびちゃ水の中を歩いているが、それでは不便であるから橋を架ける。 すなわちその橋の側であるゆえ新しい地名は橋本である、 柴 ( しば )橋である。 ある時馬が柴橋から落ちて死んだから馬 転 ( ころ )ばし、その馬の 供養 ( くよう )に 馬頭観世音 ( ばとうかんぜおん )をまつると観音岩、そこに 行者 ( ぎょうじゃ )でもいれば行者谷というような名が附く。 さらに後世風流な隠居・坊さんなどが隠居して茶でも立てて 呑 ( の )むようになると、とうとう村の者にも意味の分らぬ 紅葉菴 ( もみじあん )だの寒月渓などという名が附かぬとも限らぬ。 その中にはいろいろの原因の組合せからあるいは新しい名に人望が集まり、あるいは依然として古い名を記憶していることもあって、結局同じような地形に向って新旧種々な地名が生じ一人旅の地理学者が即座に地名の意味を会得することができるという点においては、とうていわが北方の同胞に及ばぬこととなり、さもさも物体の特性を弁別する才能を欠く者のごとく批評せらるるに至ったのは是非もなき次第である。 地名とはそもそも何であるかというと、要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である。 これが自分の女房子供であるならば、我々は他人をして別の名称をもって呼ばざらしめる権利を 有 ( も )っているが、その他の物名になると、どうしても相手方の約諾を要する。 早い話がわが家の犬ころでも、せっかくハンニバルとかタメルランとかいう立派な名を附けておいても、お客は断りもなくその外形相応にアカとかブチとか呼んでしまう。 ゆえに一部落一団体が一つの地名を使用するまでには、たびたびそこを人が往来するということを前提とするほかにその地名は俗物がなるほどと合点するだけ十分に自然のものでなければならぬのである。 これ地名にほぼ一定の規則のあるべき 所以 ( ゆえん )であって、兼ねてまたその解説に趣味と利益とのあるべき所以である。 これから本論に入る。 もし許可を得て学者臭い言葉を使うならば、元来地名の附け方には客観的と主観的との二面があるべきである。 旅客その他の往来の人が通りすがりに附けて行く名前はいわゆる客観的の地名であって、そう言うのは優勝劣敗がことに甚しい。 よほど顕著なる地名の特性を抽象しかつ適当に批評しておかぬと永くは残っておらぬ。 吾々が友人などと遠足して興に乗じて 楽屋落 ( がくやおち )の地名を附けておいた所などは自分でも覚えておらぬ。 従ってこの種の古い地名は多くは今日に伝わらぬ訳である。 別の言葉で言ってみればこれを永く伝えるためには強い人の意思が必要である。 これに反して第二種の地名は人の占有経営に伴なうものであって、ずいぶん無理なこじつけの地名を附けておいても、それで押し通して永続することができるのである。 ゆえに非常に片よったひとり合点の命名をしておいても、それが残って行って年月の経つとともにここにまた不明を生ずる。 今日の新町村の名を見てもずいぶん気まぐれな附け方をしたのが多い。 明治村や協和村の類を始めあるいは明治二十三年市町村制施行当時の社会情態を想像せしむる材料ともなろうが、十三の大字を集めて 十余三 ( とよみ )村といったり、七つの大字を合わせて 七会 ( ななえ )村といったり十一の大字で仲よく暮そうというので 土睦 ( つちむつ )村といったりするのは、後には何のためにこういう名を附けたのか分らぬことになるかも知れぬ。 また大字の頭字を一つずつ持ち寄って名を附けている所もある。 『地方名鑑』などを見るとたくさんの例がある。 出雲 ( いずも )の 簸川 ( ひかわ )郡 日御崎 ( ひのみさき )の附近で 鵜峠 ( うど )・ 鷺浦 ( さぎうら )の二大字を合わせて 鵜鷺 ( うさぎ )村というのがある。 もっと甚しい例は甲州の 北巨摩 ( きたこま )郡に水上・青木・ 折居 ( おりい )・樋口の四つの大字で水と青という字を合わせて清、折と口を合わせて哲、 清哲 ( せいてつ )村とした。 これなどは他日清哲という坊さんでも開いたということになるかも知れない。 政治上の力によった地名は何といっても仕方がないのであるが近い処では横浜の町と遠い所では 大連 ( たいれん )の町の名を見ても、どしどし新しい地名を附けてしまった。 昔もそういう例がたくさんあったのである。 たとえば『 和名鈔 ( わみょうしょう )』の郷名を見ても 建部 ( たけべ )とか 壬生 ( みぶ )とかその地に土着した人の姓をもって郷の名にしている。 しかし私の仮定説ではあるが、これはおそらくわが国本来の 風 ( ふう )ではなかったろうと思われる証拠がある。 すなわちこれらの地においては郷名として特に名家の姓を採用したことあたかも大連の 児玉 ( こだま )町・ 乃木 ( のぎ )町と同じである。 また足利末の新大名が城を築くに勝山とか勝尾とかいう縁起の好い字を選びあるいは福徳鶴亀などを山、もしくは岡の字に結びつけて城の名にしたものが諸所に見られる。 それからまたすでに存在している地名を改正あるいは廃止したのもある。 廃しただけならまだよろしいが殿の仰せでお前の村名をこう取り替えよと定められたこともある。 このために古い地名の消滅したのもまた多いかと思われる。 しかしこれとてもつまりは生活上の必要に基かないのはないのである。 気儘 ( きまま )な御大名の気まぐれな思附きでも一方から見ればその大名の好事心、世話焼心を満足せしめたという結果があり、他の一方から見れば 地頭 ( じとう )殿の御機嫌を損ずるという危険を避ける生活上の必要があったので、言わば土地命名の動機がだんだん複雑になって行く一つの例と見られるのである。 これと似たのはいわゆる客観的地名すなわち外部の指称の勝利、これに対する主観的地名の敗北である。 これは交通の盛んでない時代には、ほとんと経験するあたわざりし現象であった。 一例を言うと 出羽 ( でわ )の 庄内 ( しょうない )鶴ヶ岡である。 これはツルガオカであるが、諸方から入り込む人がツルオカと呼ぶために今では土地の人までも自らツルオカというようになってしまった。 大和の月ヶ瀬のごときも 月瀬 ( つきせ )が本当であろう。 拙堂 ( せつどう )の文章などから誤られたのかも知れぬ。 山陽の紀行が一たび出てからは、 豊前 ( ぶぜん )の山国谷は土地の車夫までが 耶馬渓 ( やばけい )というようになった。 小豆島 ( しょうどしま )の 寒霞渓 ( かんかけい )なども 神掛 ( かんかけ )とはいう者が少なくなったろうと思う。 木曾の福島はフクジマと濁って 上声 ( じょうしょう )にいうべきであるが、今日は 岩代 ( いわしろ )の福島などと同じになってしまった。 人の 苗字 ( みょうじ )にも同じような誤りがいくらもある。 誤って呼ばれるのは迷惑千万であるがつまりは商売人や宿屋の亭主の身としてはやたらに言葉 咎 ( とが )めをしては商売が 繁昌 ( はんじょう )せぬゆえに、よんどころなくお客の良い加減な判断に従ってしまうので巧みなる土地繁栄策の一つかも知れぬ。 今一つの理由としては田舎の人はとかく自信がなくて、古く自分どもの呼んでいる言葉も、都人士が呼ばぬところを見ると、あるいはいわゆる 訛 ( なまり )言葉かも知れないとすこしく心細くなって、他人の言うに従ってしまうということもあり得るのである。 ところが外部の人ことに 一知半解 ( いっちはんかい )の旅客などの地名の呼び方は勝手至極なものであって多くは文字に基いて 智慧 ( ちえ )相応の呼び方をしている。 たとえばここに有名なある一つの金沢がカナザワと唱えていると、他の金沢でカネザワ、コガネザワ、キンザワというべき所があっても、ことごとく皆これをカナザワと言ってしまって、そのために本来の意味の分らなくなることがずいぶんある。 元来 字 ( あざ )や小字の名は久しい間人の口から耳に伝えられていたもので、適当な文字はなかったのである。 しかるに地図ができて文字を書き入れなければならぬようになって村の 和尚 ( おしょう )などと相談してこれをきめた。 その文字は十中の八九までは 当字 ( あてじ )である。 しかも大小種々なる智慧分別をもって地名に漢字を当てたのは近世の事業であって、久しい間まずは平仮名で通っていたものである。 しかるによし来たと『 康熈 ( こうき )字典』を 提 ( ひっさ )げてその解釈に従事せられるのは聞えぬ。 自分等が少し珍しい地名を人に言うと、誰も彼もいい合わせたようにそれはどんな字を書きますかと聞かれる。 そのどんな字がはなはだ怖ろしいのである。 以上列挙したほかにもまだいくらも理由があろうが、要するにその意味の不明に帰しやすいことしかもその不明に帰しやすき意味を討究する面白味の多種多様であるのは、一定の地域に与えられた名称である。 自然の地形に与えられた名称でなく、人の考えをもって区劃した若干の面積に対して与えられた地名である。 厳格なる意味における土地経営の始まってから後のものである。 すなわちアイヌのいまだ到達せざる境涯における命名である。 私が説きたいのは主としてこの種の地名であるが、順序としてその前にすこしく第一期の地名のことをいいたいと思う。 何ゆえにそれを言わなければならぬかというと、地名には一種の拡充性ともいうべきものがあるからである。 最初は一地点または一地形に附与した名前を、これを包含している広い区域にも採用して行く風習があるのである。 たとえば 女夫 ( めおと )岩という二つの岩の 屹立 ( きつりつ )している所があると、それに接続している数町歩の田畑または村里の字をも女夫岩という。 ドウメキ、ザワメキ、ガラメキなどはもと水の音を形容した地名であるが、瀬の早い川の岸にある部落または田畑で 百目木 ( どうめき )、 沢目鬼 ( さわめき )などという例はいくらもある。 その次に今一つの特性として開墾の後までも、その土地の経営が始まらぬ前からある地名を踏襲して行く風がある。 踏襲性ともいうべきものである。 すなわち久木野とか柚原とかいう村はもとその名の原野があって、開墾土着の後まで旧地名をそのまま採用したのである。 何 久手 ( くて )・何沼・何々ドブという地名も田地になる前の湿地の地名を踏襲したものである。 以前の人口のごく稀薄な平原に入って開墾するとか、または今までなかった海岸・ 寄洲 ( よりす )に埋立新田を開くというような場合に至って、始めて新たに字・小字を製造する必要を見たのであった。 最初の土着者は他日人口が殖えて分区・分村の必要を見るまでは、地名などのために心力を費すだけの余裕がない。 無造作を専一とした。 村の字の多くがいわゆる客観的地名と似ている理由は、まったく右の拡充性と踏襲性との致すところである。 しかるにこの類の地名の中にも今日となっては意味の分らぬものがたくさんになって来た。 その原因は一言もってこれを 蔽 ( おお )えば単語の忘却である。 老人の物忘れである。 日本語の中にも山川地形を現わす言葉はまさしくその目的物の数だけあって、また相応に 些細 ( ささい )な特色について区別的命名をすることは怠らなかったのである。 ただいかんせん京都附近の地形は比較的単純で、北野とか東山とか、名のみ立派でも変化に乏しくかつ小規模であった。 しかも著述でも世に 遺 ( のこ )そうという人に、忠実なる旅行家が不幸にしてなかったのである。 藤原 実方 ( さねかた )が歌枕を見て参れと奥州へやられた事実は非常に悲しむべき不幸と考えられた。 歌枕を見て来るとは、和歌に用いられる地学上の用語を実物と比較して研究することであって、今日の学問から言えばむしろ名誉なる事業であるが、実方はそのために 恨 ( うら )み 死 ( じに )をして 雀 ( すずめ )になったのである。 この状態であるから『 新撰字鏡 ( しんせんじきょう )』とか『和名鈔』とかいう平安朝の 語彙 ( ごい )の中には、山扁土扁などの語ははなはだ少ないので、せいぜいで五十か七十はあろうが、それすら後世の文章や歌などには半分も使用されておらぬ。 しかし田舎に行ってみるとかくのごとき名詞はまだ口語としてたくさん残っている。 ただ口語であるために地方的の異同がかなり 烈 ( はげ )しい。 のみならずこの種の地方語はいわゆる田舎言葉としておいおい 擯斥 ( ひんせき )せらるるようになった。 今日でも府県郡の教育会の人たちの中には、単に東京のごとき新しい砂原の中で使用せられておらぬということを理由として、ややもすれば地方在来用語の使用を廃してしまおうとするのである。 いわゆる方言 矯正 ( きょうせい )の事業はいかにも有害な 殺伐 ( さつばつ )なるありがた迷惑極まる事である。 それがためにせっかく地学の研究は発達しても、諸君はまずもって漢語を二字ずつ 繋 ( つな )いで使うために、非常なる難儀を見なければならぬ。 新しい学問を国語で学ぶというありがた味は、何だか大分減少するようである。 もっともよく気をつけて見ると、今日からでも地理学の教科書に採用して頂きたい言葉が全国にわたってたくさん残っているのである。 それは今晩の問題ではないが、ホンの一二例をいうと、たとえば河内・水内等という語である。 河内はコウチ・カワチ・カッチなどと発音して、地方により音韻上の小異はあるけれども、意味は常にいわゆる盆地すなわち渓間の小平地をいうのである。 タワ・タオ・トウというのは山峯続きの中で、両側の谷の最も深く入り込んで嶺のそのために低く残っている部分、従って山越に便なる箇所である。 陸軍などの人は御職掌がらか 鞍部 ( あんぶ )と言われている。 タワ・タオのごときはいわゆる標準語として承認せられたことのある語で、『新撰字鏡』にも出ている。 それから川底の低下によってできた谷の両側の高い平地、諸君が段丘などといいあるいは外国語のままでテラッセなどと仰せある所、あれはハナワまたはウワノである。 塙と書き上野とも書く。 それから海岸でも山の中でも水流の屈曲によって造ったやや広い平地で、従って耕作居住に適した所をふくれるという意味から 福良 ( ふくら )といっている。 それと同じように水の動揺によって平らげた岸の平地を 由良 ( ゆら )とか 由利 ( ゆり )とかいっている。 すなわちユラグ、ユルなどという言葉が転じたのである。 それから山中で少しく平らな所をナル・ナロと呼ぶ。 ナラスということで、大和の奈良を平城と書くのも同じことである。 また谷川の両岸の山の狭まっている所をホキ・ホケ・ハケという。 これは今中国四国などに残っているが大分広い区域にわたっている。 吉野川の大ボケ小ボケなどはその一例である。 東北その他の地名にノゾキという地名がある。 山形県の 最上 ( もがみ )から 羽後 ( うご )の 院内 ( いんない )へ越えようとする所の小さい停車場などもその一つであるが、ノゾキは本来野のソキすなわち境上の原野ということである。 こういう言葉はまだたくさんにある。 おいおい再度の採用を願いたいと思う。 あるいはそんな古臭い言葉は新しい学問に適しないといわるればそれまでであるが、支那でも日本でも流行せぬ新熟字の漢語を苦しい思いをして案出するよりは少しばかり賢くはないかと思う。 これらの地理上の語は今日普通名詞として存在する地方ではいずれもかなり適切にこれを地名に用いている。 この事はアイヌなどとよほど似ているのである。 すなわち最初普通名詞として無邪気に用いていたのが、いつとなく文法書にいわゆる固有名詞と変って行きつつあるのである。 吾々が始めて土地に名を附けた時には名詞の普通・固有の区別などはなかった。 たとえば海岸に近く島が一つあるとそれを島と呼ぶが、二つ並んでいると区別をしなければならぬので、大島・小島とか東島・西島とか区別する。 また木のある方をその色で黒島、ない方を土の色で赤島、黒島に二つ村ができれば南黒島・北黒島などと、だんだんいわゆる固有名詞らしい地名になって行く。 市場などでもそうである。 一つならばどこへ行く、市へ行くまたは町へ行かぬかなどといえばよろしいのであるが、二つになると布市・馬市とかあるいは市日によって三日市・四日市などというようになって、それが一つの固有名詞になる。 開墾に際して新たにできた地名とても皆同じことで、初めはアイヌと同じくきわめてナイブなもので、目的は単に他と区別をすればよろしいのだから、別に装飾的意匠を必要としない限りはこれらの普通名詞の前後へちょっと何か区別の語を添えればよかった。 それが占有の思想が発達していよいよ細かな分割を必要とするようになるか、または大規模の開発で一時に数十百の区劃を設けなければならぬとなるととうていあり合せの地名だけでは間に合わず、是非なくできる限りの手軽なる方法、便利なる工夫を尽して地名を決定したのである。 元来開墾の歴史は日本ほどの狭い国でも長くかつ複雑なものを 有 ( も )っている。 一つの谷一つの 入 ( いり )に何回も何回も開墾が繰り返されていることもある。 屋敷田畑はしばしば捨てられて素地の状態に復した。 これはいくらも証拠がある。 ところがいずれの村でもその土着の年代の古いのをもって名聞とするから村の伝説は皆田村将軍以前からとなっている。 しかしおよそいつ頃の開墾であるかは多くの場合に地名がそれを証明するのである。 等しく開墾を意味する言葉であっても、その時代と場合の異なるに従ってその名称が数十通りある。 北海道に行くと何々農場という地名ができている。 那須 ( なす )郡などの大字の地名に何々開墾というのがある。 これらは最も新しい固有名詞である。 それより以前最も普通のものは何々新田という地名である。 新田の中でも何村新田というのは村事業としての開墾で、何右衛門新田というようなのは個人の事業である。 徳川幕府領ではたしか享保度に大きな新田 検注 ( けんちゅう )があった。 ゆえにいわゆる天領・旗本領ならば新田といえばその頃以後の土着であることがわかる。 越後 ( えちご )の方では新田より一段古い新田で、 古新田 ( こしんでん )、 外新田 ( としんでん )などという村がある。 すなわちいずれも徳川期に入って後の経営に違いないがその年代に区別がある。 越後ではこれら新田と併立して何々 興野 ( ごうや )という地名がある。 これはやはり開墾地を意味する語で、山形県・秋田県にも大字の地名が多い。 宮城県に行ってあるいは同じ音で高野と書き、関東の二三地方で幸谷という文字を用いているのも同じことで、その本来相当の漢字は荒野である。 これらは僧侶が学問を独占した時代あるいはそれより以前の旧ハイカラの所為で、在来の日本語を漢字のまま音読する、今も絶えない一種の趣味である。 明治の初めに用掛のことをヨウケイなどといった類である。 話が多岐にわたって相済まぬが 上総 ( かずさ )・ 下総 ( しもうさ )で峠と書いてヒョウというのは標の音である。 標はシメである。 また 澪標 ( みおつくし )のツクシである。 これは 堺 ( さかい )ということを意味する古い言葉である。 これがいつの間にか何々ヒョウと言うような音読になった。 これも地方歴史または文書に 与 ( あずか )った法師などの始めたことで、越後などの何々興野と同じ例である。 興野が荒野で開墾地を意味することは、確か大田 蜀山 ( しょくさん )の『玉川 披砂 ( ひしゃ )』という見聞録の中に、多摩川南の 関戸 ( せきど )村の某氏の古文書中に、天文頃小田原北条家の出したもので、新宿興行に付き七年荒野申し付くる云々というのがある。 すなわち資本を投じてここの新宿に土着する者の権利として、土地が屋敷または田畑となって後も七年の間は荒野同様の取扱いをしてやるという免状なのである。 今日の地租条例の用語でいえば、地価据置年期に当って一種の開墾奨励策である。 後世の新田にも多かったことである。 また荒野の字を避けていろいろほかのめでたい字を用いたのは、荒が一方に凶作を意味する不吉の文字であるからで、 飛騨 ( ひだ )の 荒城 ( あらき )郡を 吉城 ( よしき )郡と改めたのと同じ例である。 開墾奨励の他の方法としては特に租額 定免 ( じょうめん )の制度を永久に存続する策もあった。 古くから 請負場 ( うけおいば )または 請所 ( うけどころ )ともいっている。 また何村受・何右衛門受などいう村名は皆かくのごとき条件の下に、永久にやや軽き租額以上には増課せぬことを定められた地方を意味するのである。 しかしその土地が本田同様の 熟田 ( じゅくでん )となり、かつ権利移転が頻繁になって後は、新旧の田畑の間に賦課が不均衡であるのは経済上有害であるゆえに、できる限りは年限を設けその年限の終りに至って検注を行う代りに、それまでは無税同様にしておくというのが、右の七年荒野・十年荒野というものになるのである。 開墾者の側からは年期終りの検注を縄を受けるという。 何年縄とか 丑 ( うし )年縄受などという大字の名は、この事実をもってただちに地名にしたものである。 今日縄手という普通名詞なども、測地のための幹線というのが元で、長く通った道路を意味するように転じたのかと思う。 関西地方のように早くから人口が 稠密 ( ちゅうみつ )で一村の分限の狭い所では、開墾は奨励してもこれに伴なう分家はこれを制限する必要があった。 新開地の地名として 今在家 ( いまざいけ )・新庄家・新屋敷等のごとく、戸を標準とする地名の多いのは自然の結果である。 つまりは人口増殖の圧迫の下に農民は資力の許す限り分家を造りたい。 しこうして大規模の開墾事業にして始めて在家新設の特許を得たから、その地名はかかる肝要なる事実を現わしたのである。 山野の豊富な関東地方には、この種の地名はどうしても少ないわけである。 右のごとく多くの村々の名はそれぞれ開墾を意味することは同じくても、その種類によってほぼその村起立の年代とその当時の地方経済事情が分るのである。 九州の南部に行くと、ほとんと各村に何々ビュウ・何ベップという地名がある。 別府と書くが鹿児島県などの発音はビユと聞える。 この地名はまことに多い地名で、もし今すこし少なかったならば、あるいは昔の地方官の別荘だなどという解釈も出たかも知れぬが(肥後国志は現にそういっている)、幸いにしてむやみに多数である。 一村に幾つもある所がある。 このビュウが新開ないしは 切添 ( きりそえ )を意味することは今日でもあの地方の人は知っている。 ただ何ゆえに新開地を別府と申すかという説明はやや複雑である。 予の考えたところではビュウは今日は別府と書くが本来は別符である。 符とは太政官符すなわち太政官の発した特許状を意味している。 荘園の新立は必ず官符の力によったものであるが、主たる荘園のすでに十分繁栄して後に第二の官符によって附近の山野を拡張開墾するのが別符である。 すなわち追加開墾特許状を意味し、さらにこれによる開墾地を意味している。 追加開墾地は一段成功の困難なるものと認められ、条件はいっそう寛大にしてあったかと思う。 荘園制度の初期には開墾の追加は一々別官符を必要としたために、後世領主が自己の権内において荘内の空地にこれを許す場合でも、やはりその事業を別符といったのである。 元来村の戸口に比較して素地の広い場合に、条件を寛大にして新田を奨励するのは元は平民一般の競争を誘うためであったのだが、人間は今も昔も同じことで、利益があれば勢力者がこれを 壟断 ( ろうだん )するのは珍しくない。 事実においてその別符も社寺または領主の近親重臣輩の 抱地 ( かかえち )になって百姓は依然として普通の重い下作料を出した。 関東では九州のビュウに当る土地は皆 別所 ( べっしょ )と言う。 武蔵などはことに多い。 『新編風土記』の著者もこの事実は注意したが説明はない。 別納または加納という地方も皆同じ意味だろうと思う。 一色別納 ( いっしきべつのう )という語は『 吾妻鏡 ( あずまかがみ )』にすでにあってすなわち一定の現物収入を目的とする追加開墾地である。 布の一色・油の一色・網の一色という大字の名も残っている。 本荘 ( ほんじょう )に対する新荘も同じく追加開墾地である。 その本荘が公田すなわち国の領地である時には荘と言わずに 郷 ( ごう )または 保 ( ほ )という。 新郷 ( しんごう )・ 別保 ( べっぽ )・ 新保 ( しんぽ )などは 本郷 ( ほんごう )・ 本保 ( ほんぽ )に対する別符である。 また 別名 ( べつみょう )という所もある。 東大寺領播州矢野などでは別名に対するのが 例名 ( れいみょう )である。 これも追加開墾地である。 「 名 ( みょう )」は荘園の小区劃の意味で、おそらくは別名は個々の名主がなした追加開墾地であろう。 要するにこれらの地名は今日の語でいうと 枝郷 ( えだごう )・ 出郷 ( でごう )・ 出村 ( でむら )というのに該当するのである。 以上は開墾地の総称の話である。 すなわち後世それが独立一村の名前となって伝わっているものを述べたのである。 次にはさらにその中の字・小字のことを言わねばならぬ。 開墾地ではまたその内を区劃するための地名を必要とする。 二つに切って上下東西に分ける場合はいうまでもなく、共同開墾人が五人八人で分けて持つべき場合には一々の地名がいるのである。 大和朝初期の地租改正法は、明治九年のやり方よりもいっそう激烈なものであった。 今まで居住者のあった村は古くからの字・小字も多かったろうに、それをドシドシと改めて行って、 地押 ( じおし )の結果について新たに条里の制を 布 ( し )いた。 三里・一条・五坪というような数字的地名は公けの文書に用いたのみならず、ずいぶんの圧迫を加えて古い地名を減じた 痕跡 ( こんせき )は、昔の記録・地図にも残っている。 『 近江輿地志略 ( おうみよちしりゃく )』等によると五条・七条等の字が残っている地方も多い。 しかしながら古代の日本は今日よりもいっそう平遠の地の少なかった国であるから、でこぼこした所へそういう大陸の田制を 布 ( し )くのは無理であった。 従ってその次の開墾の際にはまたまたその地名を 廃 ( や )めてしまって自然の状態に戻り、今日はたいていなくなったのである。 そうして明治になって再び番地をもって土地の各筆を呼ぶようになるまでは、個々の田畠・山林・宅地にそれぞれ地名があったのである。 これはあまりの想像説のようであるが、決して証拠のないことでない。 宅地に地名のあった例はいくらもある。 民家が 軒 ( のき )を 列 ( なら )べた村などで屋敷の特色をもって呼びにくい処では、戸主の平兵衛とか源蔵とかの名前を屋敷の名にしているが、その中でも名主の家その他の大きな家では中屋敷とか新屋敷とかいって代々の戸主を呼び捨てにせぬようにしている。 大和の 十津川 ( とつかわ )などでは宅地には一々名前があって、杉の本・竹の内・東 垣内 ( かいと )・中垣内というように、所在または特徴をもってその地名としているのである。 また田畠にも一つ一つに地名があったという一例をいうと、 薩摩 ( さつま )・ 大隅 ( おおすみ )は有名な煙草の産地であるが、上等の煙草の銘はこれを作る畑の地名であって、ほかの畑では同品ができぬことを示している。 多くは八 畝 ( せ )一 反 ( たん )の狭い地の産である。 ところがそれではあまり地名が多過ぎるということを感じたのであるか、または他の理由であるか、普通は田や畑の三筆・五筆の一団に向って一つの地名があった。 水田などでも五枚・三枚と一かたまりになって所有者も一つで稲の種類も同じくする。 すなわち経済上一体をなしている者に一つの地名がある。 越後三条辺ではこの小さい区劃を 名処 ( みょうしょ )と申している。 四国・中国あたりでは小区劃のことをホノキまたはホヌキといっている。 その言葉の意味は知らぬが、おそらくはかの名処に当るのであろうと思う。 しこうしてこれが小字の起原であろうと思う。 昔は土地売買の際などにも目的物を現わすにこの地名に 拠 ( よ )ったのである。 古い売買の証文を見ると、よほど細かいところまで所在地を言っているのみならず、時としてその次に売るべき土地の地名がある。 けれどもそれだけではやはり分劃等に不便であったとみえて、荘園の堺を示すに用いたのと同じ方法で、 四至 ( しし )というものを使っている。 たとえば東限溝・北限何太夫作・西限道の類である。 永久の保存用としてはいささか 烏 ( からす )の黒雲の嫌いがある。 行政庁に地図の精確なものと土地台帳とを備えておく上は土地番号をもって現わすのが最も便利である。 しかし越前 石徹白 ( いしどしろ )村などでは今もってこれを四至で書いている。 元来数字は趣味のないものである。 便利といえば便利だがもとそれは法律上の便利で 稀 ( まれ )にしか現われて来ない法律上の必要のため、平日の経済上には不便を忍ばねばならぬ。 第一数字になると頭の粗い百姓には何分印象の力が少ない。 きょうは千二百十五番地の田の草を取れよというようなことは大変言いにくいのである。 それゆえに今も一方では番地を用いつつ、他の一方でホノキ・小字がある村では必ずそれも併行して用いているのである。 すなわち二通りの地名があるのである。 しかし埋立新田などになると在来の小字はないから、イ通り、ロ通りとか、一ノ升、三ノ割、 子 ( ね )の 坪 ( つぼ )、二 竿 ( さお )とかいう地名のみで区別して行くのであるが、さぞ呼びにくいことであろうと思う。 しかるに石川県などは地租改正の当時、ほとんと全部の字以下の地名をイロハまたは甲乙丙丁等にしてしまった。 安房 ( あわ )の佐久間村の今の大字は大字イ、大字ロ、大字ハというように附けてある。 また八王子の附近南多摩郡 忠生 ( ただお )村・ 七生 ( ななお )村のある大字では 字第一号、 字第二号というように番号を地名にしている。 武蔵には 比企 ( ひき )郡にもそういう例がある。 昔の地名は風流には相違ないが往々にして家々の呼ぶところが一致せず、訴訟 紛紜 ( ふんうん )の種となりやすいために地租改正を機として区劃を整理しかつ断然新たな地名と取り換えたのであろうと思う。 字・小字の新地名は数字以外にもずいぶん 頓狂 ( とんきょう )なものがある。 二三の例をいうと 若狭 ( わかさ )の 三方 ( みかた )郡の 八村 ( やむら )の大字に 気山 ( きやま )というのは 久々子 ( くぐし )湖の東岸である。 この気山の字がなかなか面白い。 字玉切追、尾切追、山切追、自切追、湖切追、移切追、景切追、色切追、誠切追、善切追はその頭字だけを拾うと「玉尾山より湖に移り景色誠に善し」となる。 また同じ気山の内の福浦区には十三の字があって、是福浦、従福浦、気福浦、山福浦、領福浦、番福浦、号福浦、始福浦、苧福浦、村福浦、便福浦、理福浦及び吉福浦というので、注意して見ると「これより気山領の番号始め苧村便理 吉 ( よ )し」と読める。 また神田とか八田とかいう地名は昔からいくらもありそうな地名であるが、摂津 有馬 ( ありま )郡 藍 ( あい )村 大字 下相野 ( しもあいの )の同地名はその由来が少々違う。 すなわちこの村の字を列挙すると 字文明田、 字開化田、 字敬田、 字神田、 字愛田、 字国田すなわち「文明開化敬神愛国」を田の上に分配したのである。 また八田の方は 字明田、 字治田、 字八田、 字年田、 字天田、 字地田、 字人田で「明治八年天地人」などを分けたので、地租改正の際の改称であることがよくわかる。 それから加賀の石川郡の 出城 ( でじろ )村 大字 成 ( なり )の字は、 字維、 字新、 字以、 字来、 字文、 字明、 字開、 字化というのであり、いずれも無造作の中に著しくあの時代の生活趣味を現わしているのが面白い。 これらは少々極端の例であるが、村または大小字の分合に際し新たに土地相応の命名をしたことはきわめて少なく、これに反して地名の使用を止めて地番号を用い三けた四けたの数字をもって所有地を呼ぶようになったのはまさしく近世の事業である。 これがために地名は大多数は消えてしまった。 少なくも公けのものではなくなった。 我々が本籍住所の表示には法規上大字より小さい地名は不用である。 将来このままで進んで行くならば小さい地名はおいおいに忘れられてしまうであろうと思う。 ここまで考えて来ると、明治十七年前後に内務省で集めた『郡村誌』という地名集はたとい揃ってはいないでも非常に貴重な文明史の材料を包含しているものと言わねばならぬ (註、本資料の現存せぬことについては後文に見ゆ)。 この地名集は三四百冊もある。 内務省から内閣文庫へ移り、ただ今は文科大学の保管に属している。 小字のある町村は小字まで、ない町村は字まで網羅してある。 日本の半分ほどしかない。 大冊三四百であるゆえに見る人が少なく少々虫が食べていてしかも複本がない。 予は地学協会の幹部の方々に対し深く望むところがある。 ただしたいていお察しでもあろうからくどくはいわぬ。 字の地名は小字に比べるとはるかに永い寿命があろうと思う。 何となれば字の地名は最も多く我々の生活と結合しているからである。 農業に従事する者はもちろん農をやめて教員なり役場吏員なりになっても、朝夕の会話に用いる必要が多く、どうしても忘れることはできまい。 他町村人に対しては新町村の村の名をもって住所を現わしても村中では字すなわち各自の組または坪の名を唱えている。 字にも新町村のいわゆる大字を除いて、古くから大字・中字と二段にした旧町村もあった。 しかしこの中字はほかの地方の小字であって、その下の小字は実は小字のさらに分れたものである。 従って昔大字と言ったのは今の字に当るのである。 この字の中にもよく見ると二種ある。 一つは枝郷・出村のごとき半独立体で他の一つは純然たる一村の区劃の字である。 二十三年に市町村制を布いた前にも地方によっては村の合併をなし、以前の一村を大字としたが、それが再度新町村に合併するときには元の村を大字とした。 これらの字または枝郷などは地名の研究上には村と同じに取り扱ってよろしい。 今一種の字は純然たる区劃用の命名であるから、命名の動機は往々相違があり得るのである。 しかしこれとても永い年月の間には部落の盛衰に伴なって字の小地名が一村の名になり、または昔の郷・荘の大地名がわずかに一小地域に残るようなこともあろうから一概には言われぬ。 がとにかく荘園の時代からこれを良いほどの大きさに分けてあたかも今の大字内の字に当る区劃があった。 そうしてそれに一々の地名があったゆえに、今日の字の地名にもこれを承継したものが段々あるのである。 昔の開墾では右の小区劃を多くはミョウまたはナ(名)といった。 始めての原野に入り込んで開発する者は、名の区劃地に一々当てるだけの在来の地名を知らぬから、しばしば下受開墾人の 名乗 ( なのり )をその地名に用い、国光名、利光名、徳富名、五郎丸名などとした。 今日人名のような村名のあるのは昔の 名 ( みょう )が一村になったもので、後にその地に住んだ名主はまたその居住地名を家号にしたために、人の名乗のような苗字ができたのである。 広い荘園では一名が今の一村にもなったが、通例は今少し狭く一人の武士が下受開墾をする区域は、馬の二頭に家来の十二三人も養えれば良いのであるから、多くは十町歩内外、ちょうど今日の字の少し大きいくらいのものであったろうと思う。 近世の武士はなかなかそんなことで生活はできなかったのだが、戦国時代には田地の二百町もあれば大名で、何十人という武士と何百人という足軽とを養っていた。 もっとも飛び飛びに二名三名を持つ者も多かったが、一つの名は西国地方などではごく小さなものであったとみえる。 肥前などには村の字を何々名という地方がある。 郷というのはもと荘に対する郷で、荘園に対して国領を意味した言葉である。 しかるに後には荘園の一区通例は名というべき地域を郷と呼ぶようになり、何荘の何郷といった例がある。 『 伊達家文書 ( だてけもんじょ )』に見えた仙台領にはこれが多い。 従って村の下の地では字という区劃を郷と言った例もある。 あるいは村の内に幾つかの字を合わせて郷と呼んでいた所もある。 肥前という国は妙に昔の呼び方の残った国で何々村何々郷という所もあればまた何村何籠という称もある。 籠は何と読むか知らぬ。 またあるいは 大字何々 字何々里もしくは何々村 大字何何 字何々 免 ( めん )というのもある。 免は地租の関係から出た語である。 免は今の語でいえば地租率である。 各免ごとに納率を異にし得たのである。 壱岐 ( いき )の島へ渡ると右の名、籠、免に当る区劃を触の字を書いてフレという。 陸地測量部の五万分一図を見るといくらもある。 種子島 ( たねがしま )・ 屋久島 ( やくしま )ではこれに該当する区劃をバリ(晴)といい 前晴 ( めんばり )、 西晴 ( にしばり )などという。 バリは壱州のフレと同じ語であることは疑いあるまい。 これらを今の朝鮮語のプルから出たと言ってはあるいは言い過ぎるかも知れぬが少なくともフレ、バリ、プルは共通の語原を持つとはいい得るであろうと思う。 右の触晴免名等は東方諸州では組または坪に当る。 組や坪などの地名も公認せられてはおらぬのであるが、行政上いろいろの目的に利用せられていることは大字と同じ状態にあるのである。 従って村々の昔の切絵図などは、あるいは不用となる時代があっても、字に該当する区劃地名は永く消滅することはあるまいと思う。 しこうして地名研究の側から見ても、小字・ホノキはあまり小さ過ぎ、かつ多くは字の地名を上下東西に分けたのなどが多くてつまらぬ地名が多いが、ひとり最も古くかつ趣味のあるのは右の中間の階級の地名である。 さらに字の名と大なる行政区劃の名との関係を見るに、近代では府県の名、昔では国の名に一郡一郷の地名から出た者がはなはだ多い。 これと同様に新町村の名にもその大字すなわち旧町村の一つを採用した例は一万二千中の半分ある。 その大字の地名も前に列記したごとく直接に開墾を意味する語のみをもって組み立てられておらぬ限りは、またその大字中のある字の地名から導かれている。 いわゆる地名の拡充性を発揮したものである。 これというのも今日大字以上の広い一区劃では、その地形上の特色の総称として採用するに適するものを発見して地名とすることは困難であるから、やはり常にその域内の主要なるある区劃の地名をそのまま踏襲するを便としたのである。 要するに開発当初の村民に対して最も必要であったのはいわゆる小字の地名かも知れぬがそれは多くは考えもなしに符号的に新造したものが多く、古くからの地名の踏襲せられまたは拡張せられたのは字の方に多くはなかったかと思う。 すなわち一方には命名当時の経済状態を知らしむるのほかに、いわゆる客観的地名としては、地形の特色と比較して古代の用語の意味を解釈し、さらにこれに当てられた漢字によって、命名当時のもしくは字当時の文化を研究するの助けとすることもまた難いことではないのである。 最後に今一つ、地名を研究する面白味は、これと吾々の苗字との関係にある。 職員録などによって町村長、県郡参事会員のごとき、いわば地方土着の旧家の家名を調べてみると、その大部分は近傍の村または大字の地名と共通である。 日本人は源平藤橘等の姓が少ないために、かつ他人の名乗を呼ばぬために、多くの太郎次郎を区別すべく、主としてその人の居住地を呼んだ。 それが今日の苗字の起原である。 すなわち支那人が満洲の平原などで村を作り、自分の家号を地名として 陳家屯 ( ちんかとん )、 楊家寨 ( ようかさい )、 柳家店 ( りゅうかてん )などと呼ぶのとは完全に反対で、吾々の苗字はかえって居住地から出ている。 その結果は近年の引越しによって、本国故郷が不明になるおそれが少ない。 元はあの村の地を耕しあの谷の米を食っていたのだということがほぼ分る。 貴族武家では系図が大切だ。 時としてはこれを偽作する必要さえもあったが平民の系図は大部分不明である。 よほどの名家でない限りは十代十五代前の祖先は何氏何某であったということも分らず、もちろん墳墓はどこにあるか知らぬという者が多いのである。 ゆえにもしかくのごとき地名と苗字の関係によってほぼ祖先の生活根拠の 故山 ( こざん )を知ることを得、しかもそれに伴なってその当時の経済情態を一部分なりとも知ることができ、時と場合によっては自身その地名の在所へ行って熱心に調べてみるということになると、その結果は我々の血の中に当然に遺伝しているべきわが祖先の生活趣味を自覚することとなり、容易に国家結合の基礎を固めることができて 揚足 ( あげあし )を取られやすい下手な説法などに苦心するの必要もなく、千年万年の後までも日本人は愛国心・尊皇心の強い国民であるであろうと信ずる。 地名の研究に関しては、私はおかしいほどたくさんの無駄な苦労をしている。 そうしてまだこれという価値ある発見はないのである。 もしこの経験がなんらかの役に立つとすれば、それはただ諸君にもう一度、同じような無駄をさせないというだけの、消極的な参考となるに過ぎないのである。 最初に言っておきたいのは、地名を調査してその一つ一つを解説し、または一般的傾向を要約した書物が西洋では多くの国に出ており、中にはそれ一つしか著書のないという人もあるらしいが、そのためにこれを独立した一つの学問と見ることはできぬということである。 こういう研究をするにはいろいろの文化現象に興味をもち、また自然と社会との各方面の知識をも用意しなければならぬ。 従うてその綜合の外形から見ると、何か一つの 纏 ( まと )まった学問ででもあるように考えられぬこともないが、これだけはいくら学の字を安売りする国でも、さすがに独立して専門の一学科となりそうな見込みはない。 そうするといったいこの研究は誰の管轄に属し、いかなる学問の一部になるのであるかが、次に問題になって来るのである。 地理学の方でも、恐らく全然無関心でいるわけに行くまいと思うが、それはちょうど動植物学の物の名におけるがごときもので、ほかで確定したものを引き継いだ方が便利だくらいに、諸君は定めし思っておられることであろう。 純然たる地形論の立場からいうならば、いかにも名称は差別の標目に過ぎないから、名がなければ新たに造りまたは訳し、ないし符号・番号にしておいてもそれで済む。 しかし一たび人と天然との関係、人が山川原野に対して古来いかなる態度をもって臨んでいたかを知ろうとすれば、これに応用せられていた国語の意義、ある言葉をある地形に結び付けた最初の動機を、尋ね究めずにはおられまいと信ずる。 多くの学問は互いに相補うてともに進んでいる。 もし自分の力でこの方面を開いて行くことはできぬと言えば、それはただちにまた他の兄弟学科の成績に、注意している必要があることを意味するのである。 みんながお互いにそれは私の領分でないと、押し附け合っていてはよくないのである。 私は社会人の公平な地位から判断して、これは広い意味の人類学の管轄にしておいて、地理学ではその研究の結果を利用するのが最も便利だろうと思っているが、これにもまた人類学が今日のような狭い縄張りに割拠していてはいけない。 そこでまず地名研究の人類学上における位置というものを説くために、ざっと今日認められている分類法を述べてみると、人類学は日本でもやっているように、第一次にこれを生理学的すなわち体質人類学と、社会学的すなわち文化人類学に分ける。 体質人類学も静的すなわちどんな形で生まれているかを観るのと、動的すなわちどういう生き方をしているかに小分けしてかかるのが必要だと思うが、それは隣の家のことだから今は私は口を出さない。 文化人類学の方にも実は手に余るほどのダータがあるので、私は最もその整理に忙殺されているところで、あるいは後になったら改められるか知らぬけれども、差し当りこれを三つに小分けするのがよいと考えている。 その三つというのは、直接に眼を働かして写真・スケッチ・記述し得るものが甲、これを生活技術誌または有形文化誌、もしくは土俗調査などと名づける。 乙はすなわち主として耳の働きによって採集し得るもの、これを口承文芸もしくは言語芸術といいあるいは口碑という語にどうかしてその全部を含ませるようにしたいとも思っている。 丙すなわち第三の部分は、眼も耳ももちろんつぶっているわけには行かぬが、それよりもさらに進んで同国同郷人の親しみに基き、智能感覚によって直接に会得すべきもの、外人が異民族の中に入り込んで行った場合には、よほどの同情と推理力を持っていても、しばしば見落したり誤解したりするむつかしい部分で、これを常民心理と言っても狭く、俗信と名づけてはなおいっそう狭くなる。 まず現在では無名の一団の知識である。 さてこの三つの部門の中で、地名は耳で聴くものだから当然に乙部に所属するが、これがまたさらに細かく分たれねばならぬのである。 口承文芸のいちばんよく知られているものは、(イ)には民間説話すなわち昔話。 伝説は実は定まった形がないので、第三部に入れた方がよいのだが関係が多いからかりに説話に附随させてある。 これがまたちっとやそっとの分量ではないのである。 次には(ロ)語りもの、(ハ)民謡、(ニ)唱えごとや 童言葉 ( わらわことば )、(ホ)謎及び判じもの、(ヘ)たとえごとや教訓語、普通にことわざの名をもって知られているもの、(ト)その他の物言いすなわち常用文句、口合い・秀句の類はこれに入る。 そうして最後には(チ)命名法または新語造成法というべきものがあるのである。 この新語の中にもいわゆる普通名詞と固有名詞等があり、固有名詞にも生まれた児の命名や人の 綽名 ( あだな )と対立して我々の土地に名づくる言語芸術がある。 それがこの通り興味ある豊富の 痕跡 ( こんせき )を後代に 留 ( とど )めていたのである。 地名の研究は 広汎 ( こうはん )なる人類学の中では、実際はほんの片端であって、しかも他の部門とは下に行き通うている。 一つの研究に潜心する者の私情からいうと、これを一つの独立した学問と解したいのは山々であるが、それでは何のために我々がこんなに労苦するのかの、趣意すらも明らかにならぬことになるから、私はまず最初にその地位を明らかにしておきたいのである。 次にぜひとも話をしてみたいのは、日本における地名研究が他の民族のそれに 比 ( くら )べて、何ほどの特色をもっているかということである。 これは将来この仕事に指を染めてみようという人にはかなり小さくない関心事であって、私はそれが確かに張合いのある研究だという結論をもっているのである。 その特色の一つというのは何よりもまず地名の分量が多く、従うてその変化の盛んなことである。 こういう国に生まれて我々はこれを当り前のように思っているが、小さな島ながらこの島は 地貌 ( ちぼう )が万般であると同様に、おそらくはまたいずれの国よりもたくさんの地名をその上に載せている。 人と土地との交渉がすなわち地名である以上は、その数量は必ずしも面積とは比例せず、そこに生死した人の数に伴なうのが当然ではあるが、それにしたところで実に驚くべき地名の量である。 今日公けの帳簿に表われているだけでは、道府県郡市町村とその 大字 ( おおあざ )及び字であって、こればかりならば他の文明国もそうは違わぬようであるが、この数がすでに大きなものである。 現在の市町村は御承知の通り、四十年ばかり前から大合併をして、約一万千余になったのであるが、明治十九年かに印刷せられた『地名索引』には、十九万何千の町村を列記している。 その後の変化は若干あるけれども、これがまず今日の大字の数と見てよろしい。 その大字の下には字があるが、土地台帳にも載っているこの字というものは実は新しい。 地租条例制定に先だつ明治八、九年の土地丈量の際、全国を通じて一分一間の大地図を作らせた。 少し大きな町村では、この丸地図はどんな御寺の本堂でも拡げられないので、それを適度に切った切絵図なるものが同時にできた。 現在の「字」はすなわちこの切絵図の個々の名であって、以前からあった「字」とは当然に合致していない。 もっとも地名は新たに制定するよりも、大部分は在来のものを引き継ごうとしていたが、字の境はしばしば新旧食い違っているのみならず、人の住む区域では在来の字の方が概して小さかったから、たまたまその一つを採用すると、他の二つ三つの旧字が公けの記録からは消える。 それでもこの切絵図の字が一村に十数枚、多いところでは百以上もあったから、ざっと見積ってこの新「字」の地名は、全国を通じて四五十万はあるのである。 この以外に在来の字、これも住民の記憶及び使用からは消えたのでなく、ただ公けの文書には現われぬというのみであった。 これを土地によっては 小字 ( こあざ )と呼び、あるいは別に本来の小字のあった所では、かりに 中字 ( ちゅうあざ )などといっているのである。 明治十七年前後の内務省地理局の事業としては、この中小字を全部書き上げさせる企てがあった。 これにも簡単な地図を伴のうていたというが、私はその二三点しか 目睹 ( もくと )していない。 「字名集」の方は幸いにして大部分目を通し、また少々の書抜きをしている。 地理局が縮小して課になった際のことであったろう。 この全記録がいったん内閣の記録課に引き継がれ、それから東京の帝国大学へ寄託せられてあって、最近の大震災に消失してしまった。 府県には稀にその副本を存するものがあり、現に愛知県などは近くこれを出版しようとしているが、全日本を取り揃えることはもはやほとんと望みがたい。 それほどまた 浩翰 ( こうかん )なものであったのである。 何でも大学の旧本館の階上数室に、ぎっしり積み込まれてあったという話である。 私は当時記録課長の職分を利用して、これを取り寄せて一年近くもかかって見た。 小使が六幅の大風呂敷を持って行って背負って帰るのに、一つの県だけが一回には運搬しきれなかった場合も折々あった。 もちろん地方によって繁略は一様でなかった。 どこかの県では一村すなわち今の一大字を二冊に分けてある例があった。 岡山県かと思う。 それも十三行の 罫 ( けい )を五六十枚も 綴 ( と )じて、一行に一地名ずつを書いたのだから、少なくとも二千三千の小字を存する町村は稀でなかったのである。 そうかと思うと一大字でわずか百足らずの地名を報告したものもあった。 始めから少なかった場合もないとは言えぬが、それが久しく私称であったために、列挙するには及ばぬと心得た者も多いように思われた。 中国・四国でホヌキまたはホノキなどと呼んでいるものは、普通に小字といっていたものの一つ下であって、交通の 衝 ( しょう )に当らぬ限りは隣里の者すらも知っていなかった。 大きな地主の家ではたいていは所有地が飛び飛びであり、そうでなくても地形が 区々 ( まちまち )で、水の手も耕種法も別にしなければならぬ場合が多く、内の者だけはその田畑の数筆を合わせてなんらかの名を付して互いに呼んでいた。 東国ではこれを 名処 ( みょうしょ )などといい、その著名なものだけは同区の者も知っていた。 それから屋敷にはまた屋敷の地名があった。 これも新しい村ではただ主人の通称などを呼ぶこと、ちょうど新田村が開発者の名を冠するがごとくであったが、古く住む者だけはそれぞれの地名を持って、その命名の法則は山も耕地も異なるところはなく、時としては家の周囲の一区劃の名にもなっていることあたかも千葉が郡の名となりまた県の名となったのも同じであった。 こういうものまでも加えると一人が造った地名の数は大変なものだが、かりに最少限度の一大字で百と見ても国全体ではすでに二千万になるので、これに比べると今ある表向きの自治体の名などは物の数でもないばかりか、ある種の書斎学者がかつて試みたように、こればかりで日本人の昔の生活を推測することは、かえって危険だということになるのである。 とにかくに記録文書の資料は焼けたり失われたりしたが、わが邦の地名がいずれの国よりも繁多であるということだけは、何人も争い得ぬまでに証明せられている。 私の今までに最も驚いたのは、吉野秀正という人の著した『 壱岐国 ( いきのくに )続風土記』であった。 内閣の文庫に今蔵せられるものは三十二巻であるが、原本はこの倍以上もあって、字名列記の大部分は省略したとある。 それでいてこの伝写本に出ているだけの地名でも、ほとんと 算 ( かぞ )え切れぬほど細かく分れている。 壱岐は九州南部のある一つの山村よりも小さい国であるが、その地名の多いことにかけては、おそらく北海道の全道とも匹敵するかと思われた。 天保年間にできた 周防 ( すおう )・ 長門 ( ながと )の風土記なども、やはり相応に詳しく各村の字だけは録している。 これらを一つ一つ西洋の地名学者が調べたように当って行くことは、日本では実は無理な事であった。 すなわち我々のためには特に一つの方法が考え出されねばならぬのであって、しかもこの十分なる資料による以外には、人が土地に名をつけようとした 本 ( もと )の心持を、精確にするの 途 ( みち )はないのであった。 我々の未墾地はこの方面においては、広大にしてまた異常に 肥沃 ( ひよく )である。 日本の地名研究のまた一つの大きな特徴は、東西南北の一致がきわめて顕著であって、その発生の通則が見つけやすいことである。 これは一つの中心地から四方に向って、前後何回かの移民が分散して行った国でないと、見ることのできない一つの現象であって、これあるがために我々は純然たる帰納法によって、地名ばかりからでも多くの前代生活を 闡明 ( せんめい )することを得るのである。 だいたいにいずれの国でも地物を意味する普通名詞に、なんらかの他と紛れない限定詞を添えて、ある地点なりその周囲なりを指示するのであるが、多くの形容法や人の心付いて名にしようと思う特色の説明法が、どこへ行ってもほぼ一様であるのみでなく、こうして形容せられる地理的名称にも、今は用いられずまた文筆の士に忘れられたものは多いが、本来一つの語なるがゆえに当然に全国一致のものが多く、従うて幾つかの必要なる古語が、この比較によって復原し得られる見込みがある。 京都人は旅行せずまたあまり山に遊ばず、何かというと漢字を 弄 ( ろう )してそれをもって地理を説こうとしたが、それでも『 新撰字鏡 ( しんせんじきょう )』や『 倭名類聚抄 ( わみょうるいじゅしょう )』に、漢字に宛てようとした和語はまだ多かった。 歌文にはそのわずかな一部分が用いられているだけだが、現地には必要上ちゃんと残っている。 たとえばクマという語は九州には無数にある他に、東国にはカクマという複合詞になって今も伝わり、タワはタオ・トウ・トウゲ等の形で全土に分布し、また海岸線を見て行くとユラ・フクラ・メラ・カツラ等の地名がどこにもあり、その間にはまた労力利用の方式から来たかと思うユイ・タユイ・タゴの浦などの地名も行きわたっている。 だいたいにいちばん多いのは下に田の附く地名、水田はむろん多かったのであろうが、それよりも地名は米を作る土地によって作ろうとした国風かと思われる。 それから古木を大切にした慣習が松本・杉本という類の地名に残っている。 何野・何原は開墾以前から、すでにその地に人の熟知した地名のあったことを意味している。 日本は支那の 劉家屯 ( りゅうかとん )や 楊家店 ( ようかてん )などとは正反対に、地名に基いて家の名を作る来歴のある国であった。 だからこういう風に人の集まった席で調べてみると何田・何本・何野・何原という四つの苗字が、いつでも三分の二近くを占めていることを発見するのである。 それからこの一致はひとり一時代の水平的関係だけに 止 ( とど )まらず、古くあった地名も今ある地名も人の名前ほどには時代の変化がない。 これは古く付けた地名が久しく保存せられているか、または古い命名の趣味なり方針なりが、子孫にも踏襲せられているので、私は多分両方五分五分だろうと思っている。 古い地方は切れ切れに今までの歴史に見えているもの以外近年大学の史料から出された古文書中、高野山や東寺の所領文書に多く出ている。 寺の荘園は所在がよくわかっているから、引き当ててみたら今でも変遷の有無がわかるであろう。 鎌倉・足利の武家時代に行われた検注状などを見ても、これは古風な地名だ、今はもうどこにもなかろうと思う地名は、ほとんと一つだって見つからぬのみか、紀州は紀州、若州は若州とその地方限りの傾向ともいうべきものが、今日もしありとすれば以前にもあったように思われる。 一つだけ例を挙げると、屋敷の名に何 垣内 ( かいと )という例は、大和では今も普通だが、以前にもこれがよく用いられている。 家の周りに竹を多く 栽 ( う )えて要害に宛てたかと思う竹の内という屋敷名は、古く 溯 ( さかのぼ )れば 武内宿禰 ( たけのうちのすくね )以来かとも想像せられるほどに、中世には数多いものであった。 ところが東方に来るとこれが竹の鼻となり、個々の住宅ではなく民居の一集団を遠望から囲おうとしていたかと思われて、古今ともにそういう部落の名は東日本には多いのである。 わが邦の現存地名は最少限度二千万はあるが、そうしてまたこれを作為した人間の動機には複雑なる変化はあるが、なお我々はその分類整理によって、大数の一致した現象から、その性質を明らかにし得る十分なる希望を有するのである。 しかるに世間にはちょうどこれと裏返しの推断をもって、日本の地名研究を特色付けようとした人があった。 今はどうか知らぬが大学の地理の教室からも、かつてそういう声の洩れ聞えたことがあった。 たとえば 神保小虎 ( じんぼうことら )博士などは、アイヌ語に興味をもって北海道の地名をよく調べられたが、おおよそ何が判らぬと言っても日本の地名ほど不可解なものはないということを、しばしば人に向って言われたことがあった。 私の地名研究は実は神保博士の激励の 賜 ( たまもの )と言ってもよかった。 私の感じたところでは、狂人の言といえどもよく聴いていると何か趣意がある。 ましてや正気な人のしかも多数、甲が唱え乙丙丁がこれに賛同した言語の適用にして、理由のなかったもの、無茶を言おうとしたものがあろうはずはない。 それが知れないというのは歴史の埋没を意味する。 今日 汗牛充棟 ( かんぎゅうじゅうとう )の歴史の書はあるけれども、まだまだ我々には学べば学ばるる新しい過去の知識が、しこたま潜んでいるということをこの地名の不可解が教訓しているのである。 そんならやってみようかという気になったのは、感謝すべき先輩の刺戟であった。 だから私は同じ日本人の血を分った者の、後になって新たに 拓 ( ひら )いて行ける未開地が、今まで囲われて保存せられていたことを、また一つのこの研究の大なる特徴に算えようとするのである。 そうしてこれがひとり地名という一種の言語芸術に限られたことでないことを知って、いよいよ日本のフォクロアの将来を祝福せずにはおられぬのである。 アイヌの地名解は永田方正氏の一著があり、またバチェラア師辞書の旧版の附録にも若干の講説があって、今日ではまず十の八九までおおよそは意味が明らかになったと言ってよい。 そのお蔭に今では内地の地名まで、よくわかっているのにアイヌ化しようと努める人さえできて来た。 あほらしい話である。 アイヌ人地名のわかりやすい理由は明白である。 彼等の名の付け方は一色しかなかった。 一言でいえば天然描写法、すなわち子供たちが今でも名を知らぬ土地を言い現わそうとするのに使うもの、これただ一色で用を弁じたのだから、彼の語を知る者にすぐ呑み込めるのは当然である。 我々の地名にももちろんこれは多い。 ただ幾分かその用語が古くなっているために、これを日常の間には見出さぬ場合があるのみである。 しかもそういう一通りの名を使い切った後に、次に起ったものは単純でなかった。 たとえばある一つの地点またはわずかなる地積に対して附与した名が後にその場所が重要になったために、これをずっと広い地域に拡張して今はどの辺が元だか不明になった場合である。 古来の六十六国は国号研究の書もいろいろ出ているが、いずれも当て推量の甚しきものになっているのは、つまりはどこが中心で命名したかを知らぬからで、これがことごとく最初から今ある区劃に対して附与した名であったろうことは想像しがたいのに、人は皆各州全体のとりとめもない状態から、説明の手掛りを把えようとしていたのであった。 郡名・郷名のそれよりもさらに後に起ったものなどは、上中下というような区劃名は別として、その他はたいていは今日の切絵図地名のごとく、区内の比較的重要な旧名を採用していたらしい。 そうするとそれがどこであるかを尋ねるより以外には直接の解釈法がないのは当然である。 つまり判らないのではなく、判る途を求めなかったのである。 たとえば那須という地名は山の名で野の名で、後に郡またはあの地方一帯の称呼ともなった。 どの辺に最初の那須があったかがわからぬ限りは、諸国の幾つかあるもっと狭い那須という土地の、特徴を重ね取りにしてみるのがたった一つの方法である。 それをしないでおいたならアイヌ語はおろか、ネグリトの語をもってしてもこれを説明することができるかも知れない。 我々の祖先は 夙 ( つと )に郡県の制を定めて、盛んに地名の拡張を試みた以外に、なお今一段と進んだ文化に基いて、土地に印象的なる新名を与えようとしていたのである。 山中原野の特色などというものは、ともすれば千篇一律に堕して、二つあっては弁別に差し支える場合が多かった。 今少し具体的な、しかも覚えたら永く消えないものを選定しようとすると、そこに若干の機智と意匠とが入用であった。 だからこの方面には歴史的、記念式命名とも名づくべきものがいろいろできて、土地の人の面白がった割には 他処者 ( よそもの )・後世人にはむつかしい地名が交って来たのである。 平野の占有地の利用地名に至っては、実はたいていはその必要が一時に現われて、それぞれ適当なる名を与えることが、かなりの難事業であった場合も多かった。 アイヌたちにはまったくないことであるが、一望果てもないような 新田場 ( しんでんば )が新たに開かれて、それに 畔 ( あぜ )を切り 径 ( みち )を分けて、なお今日の何十何番地という類の殺風景な、地図を携えなければ誰に尋ねてもわからぬような、地名を付けずに済んだのは 技倆 ( ぎりょう )と言ってよかった。 附近に何か旧来の地点・地名がすでにあれば、これを応用しようとしたのはもちろんであるが、それが得られぬ場合は多かったから、従うて種々な今一段と文化的な地名が考案せられたので、しかもその一つ一つが適切に、また永く記憶せられやすいものであったということは、まことにこの国民の言語感覚の、 疎漫 ( そまん )でなかったことを示す心強い例証である。 これがアイヌたちの付与した地名以上に、難解であったことも意味がある。 つまり我々はまだこの命名者の境涯に立って、その動機を 詳 ( つまびら )かにするだけの準備がなかったのである。 たとえば前代人の信仰生活の現われは、里では 神楽田 ( かぐらだ )だの 阿弥陀 ( あみだ )屋敷、山奥では 姥谷 ( うばだに )だの 行者洞 ( ぎょうじゃどう )等の名に伝わっているが、だいたいに最も普及しているのは経済上の事情、すなわち何のためにそういう土地の利用が始まったかを、説明するような地名であった。 古いわが邦の占地制度に、もしも少しでも不明な箇条があるとすると、地名はかえってその集積と比較によって、逆にこれを我々に教えてくれることになるのである。 東京の周囲ことに武蔵の北半に多い 別所 ( べっしょ )という小部落の名などは、すでに『新篇風土記』にも注意せられているが、これは中央部に昔からあった別名や 一色別納 ( いっしきべつのう )、もしくは九州南部の別府という語などと比較して 攷定 ( こうてい )すべきものであったろう。 別府は宮崎県などでは国司の別荘ででもあったかのごとく思っている人もあるらしいが、そう想像するには少しばかり数が多くあり過ぎる。 この「府」は後の宛字で、本来は「符」すなわち開墾免許状を意味していたと思う。 すでに開かれている荘園の中にある空閑地を後に特別の官符をもって追加開墾させた名残、後の言葉でいう何々新田に該当するものであった。 田畑は以前ある一定の目的のために、区劃してその租入を振り向ける場合が多かった。 これが何々免だの何々給という地名の起りであり、また二月田・三月田という類の田の名が、大きな社の附近によくある理由でもあった。 これを注意していれば土地制度の古い姿が察せられるのみか、さらにこれによって支持せられた信仰の痕跡さえわかって来るのである。 今一つの特殊なる興味は、日本の地名と我々の家名との関係であった。 日本人のいわゆる苗字は全国を通じてその数が何万の多きに及ぶのだが、面白いことにはその中のごく一小部分五十か六十のものが最も普通であって、それを名のる家の数も多く、かつ万遍なく各府県に行き渡っており、残る大部分はいずれも地方的にわずかずつかたまっている。 これを自分等は家が居住地の地名によって呼ばれる風習の農民に限られ、その他の職業の者は 夙 ( はや )くから家号を負うてどこへでも移住していた結果と解している。 中世以前の武家を始めとし土地と因縁の深い生活をしていた家だけは、ことごとく地名をそのままに家名にしていた。 もちろん後々の模倣や冒称もあろうが、少なくとも家の伝説としては、かつてその祖先の者がそういう地名をもつ土地を、経営していた時代のあったことを語っているのである。 従って地名の変化の複雑にして、かつ印象的であるということは、同時にまた我々の家の歴史の調査にも、一つの暗示を投げることになるので、それがもし幸いにそうありふれた地名でなく、また発生の時代のほぼ考えられるものであったならば、単に苗字だけからでもある程度までは、自家の生活を今日あらしめた事情を推定し得るのである。 一つの実例を挙げると荘園が新たに設けられ、やや広い平野を区劃分割した場合には、その各区を 名 ( みょう )と名づけてそれになんらか新しい地名を付与しなければならなかった。 名にはその最初の分担開発人、ないしは世襲の権利を認められた名主の名を呼ぶのが普通であった、というよりもそうするからしてこの区劃を名といったらしいのである。 人の実名は 諱 ( い )んで呼ばぬのが礼儀であったが、荘園の名主は領家から見れば目下であるがゆえに、勝手にその名乗を取って土地に名づけた。 中部以西には今でも多く見かける人名同様の地名、または貞光とか国重とか徳富とかいう類の、氏名を顛倒したような家の苗字は、まったくこういった順序を踏んで発生したものである。 これが直接に先祖の本名を家号にしたものでないことは人にいろいろの別称を付して、二字の名乗を口にするを避けた日本人の習性からでも推測することができる。 すなわちいったんは土地の名になって後に、その地に住んだ家が地名として再びこれを家の名に採用したのであった。 この点にかけては日本の地名は、隣国の支那とはちょうど反対で、かえって北 欧羅巴 ( ヨーロッパ )の国などと似ている。 すなわち土地が居住者の携え来たった家名によって、名づけられる場合はほとんとなく、地名はかえって常に居住者の名前として利用されていたのである。 近頃でも新聞や雑誌に、時折話題となる珍氏名なるものは、半分はこうした偶然に起ったのであった。 苗字の珍しいのはたいていは地名が珍しかった結果である。 人は時々頓狂な通称を付けて喜ぶ癖があったゆえに、家号もその通りに誰かがふざけて附けたのだろうという想像は誤っている。 地名の方こそこの通り必要が激増して、単純なる在来の式を踏襲してばかりはいられなかったのである。 その上に土地利用に関する古い慣習は、消えて不明になった。 どうしてこういう地名ができたのかを知らぬ人が、それを家の名にしてまた誤解しているのだから、何とも合点の行かぬ苗字に出くわすことが多いのである。 常陸 ( ひたち )の旧国府は今の石岡の近所であるが、あの 辺 ( あたり )にしかない苗字に 古仁所 ( こにしょ )というのがある。 これが以前の健児所、今の語でいえば警察隊の詰所に所属していた土地の名であったことは『国誌』にもすでにこれを説いている。 健児は『平家物語』などにはコンデイと読んでいるが、関東ではあるいはコンニに近い音で唱えていたことが、今存する家の名からも察せられるのである。 遠い郡県時代の国司組織の名残までが、なお地方だけには偶然ならず保存せられている。 ましてやその次に起った荘園制の痕跡に至っては、現にその管理者の 後裔 ( こうえい )の近くに住んでいる場合も多いのだから、残っている方が当り前であったと言える。 歴史を読む者の誰でも知っているのは、鎌倉の幕府の主要なる政略の一つは、全国の荘園に地頭を置いて、主として自分の配下の武士をこれに任じたことであった。 在来の 領家 ( りょうけ )はその 掣肘 ( せいちゅう )を受けたのみならず、収入を 殺 ( そ )がれるがゆえに地頭との争訟は絶えなかった。 その押問答の末は 下地 ( したじ )の 中分 ( ちゅうぶん )と言って、これだけは地頭にやるから残りは手を出さぬようにしてくれということに帰着し、以前一つの開墾地であったものが二つに割かれた。 東京の近くでは埼玉県南部の平地などに、その時の地名がいくらも残っている。 平方 ( ひらかた )領家とか 指柳 ( さしやなぎ )領家などというのがそれで、同種の地域名はまた遠州の 御前崎 ( おまえざき )附近、その他各地にも分布している。 すなわち史家の大切にする古文書などは一通もなくても、地名が直接に過去の 闘諍 ( とうじょう )を語っているのである。 八王子市の隣接地に 一分方 ( いちぶかた )・二分方等の地名があったのは相続の分割であった。 相州の松田附近の松田総領・松田庶子もまたそれで、親がどういう風にその財産を見たかを示すのみならず、さらに利害の 牴触 ( ていしょく )がいよいよ境を明らかにする必要を生じたことをも語るのである。 それからまた荘園の諸役、 公文 ( くもん )とか 案主 ( あんじゅ )とかの給与せられた田畠、鎮守・菩提寺の 帰依 ( きえ )尊信を意味する寄附地・除地・免地なども、多くは地名になってその当時の状況を 窺 ( うかが )わしめる。 人がこれまでこういう史蹟に、注意を払おうとしなかっただけが悪いのである。 それからまた一時代を過ぎて、戦争で住民が離散し、かつて発生していたたくさんの地名が消えた。 そうして再び平和な土着期に戻って、その荒地が改めて開拓せられたのであるが、近くに以前からの故老が少しでも残っていた場合には、新たに地名は設けずにやはりできるだけ在来のものを利用し、それが忘却せられ尽した地域にあって、始めて近世風の命名を試みている。 この新開地の地名にも、相変らず時代と慣行とを表示しているものは多い。 概括していうと関西は人がよく移動し、わずかな開拓にもこれに伴のうて民居を創設し、新町・新村・今在家・出屋敷という類の字ができている。 これに反して東国は田屋の生活様式が永く伝わり、最初は栽培期間ばかり遠くからやって来て、新田を耕作する者が多かったとみえてその地名はもっぱら耕地を表示している。 そうしてその中にも村が共同に開いた何村新田の類と、個人が損益を負担して単独に許可と検注とを受けた何兵衛新田の類とが、入り交って存在するのである。 それからまた部落が協力して切添えをしたものでも、成功の当初から割り渡して私有せしめたものと、なお当分の間は年限を立てて、総員順まわりに作っていたいわゆる 車地 ( くるまじ )式のものとがあった。 これもよく見ると個々の小地名の中に、かなり明白にその処理法を表示している。 明治初年の村絵図作成の際なども同じであるが、地名の必要はたいていに一時にどっと現われて来る。 首を 捻 ( ひね )って一つ奇抜な名を付けてみようなどと、考えている余裕はないのが常であった。 人が評定をして多数決できめたということも想像しがたい。 実際は多くの新しい普通名詞も同じように、誰もがそう呼ぶより他はないと感ずる名がただ一つあって、それに気の付く力が昔の人はいたって鋭敏であったのである。 何にもせよ使用者の要求を代表せず、群の生活に相応せぬ地名は記憶せられて永く残るはずがなかった。 それゆえにまた 飜 ( ひるがえ )って、それからその当時の状態を推測することも許されるのである。 今ある日本の地名は少なくとも数千万、ことによると億という数にも達しているかも知れぬが、適当なる分類をして行けば解釈は決して不可能でなく、またさほど煩雑なものでないと私たちは信じている。 分類の方法にもいろいろの案はあろうが、だいたいに発生の時の順序を追うて、まず最も新しい「分割地名」というものを、取り 除 ( の )けてみることができる。 すでに区劃せられてあるやや広い地域を新たに二つ以上に切って呼ばなければならぬ時、数が少なければ上中下や東西南北の方位を冠して、今までの地名を保存するのが自然であり、いよいよ多数になれば今日のごとく、地番を付するのもやむを得ぬが、ちょうどその中間の階段においては何とかして一々に名が付けたくなることは、五十何年前の切絵図の字などがよい例である。 これには他によい手掛りもない場合が多いので、最も多く各時代の制度経済、もしくは信仰の種々相が引合いに出されているが、残りの一部分だけは今一つ前からの地名を踏襲し、または採用しようとしていたのである。 私はこの旧地名をまた二つに分けて、その比較的新しいものを「占有地名」といおうとしている。 すなわち人が広漠の山野を区劃して、これだけは自分のものだという際に、必ずまた一つの地名ができているのである。 占有地名は一時にそう多くは必要を生じないから、物好きに佳名を考案した例も若干はあるが、これとてもある個人の趣味や思い付きを多数者に強制することは容易でないゆえに、やはり通例は土地にまたもう一つ前からあるものを採用しようとしていた。 この占有以前の地名は当然に地域地名ではない。 必ずしも清水とか岩とかいう小さな地物には限らず、時としてはかなり広々とした延長をもっていることもあるが、その境界の不定であることは、 玄海 ( げんかい )とか 響灘 ( ひびきなだ )とかいう海上の地名と同じい。 そういうのを私は一括して「利用地名」と呼ぼうと思っている。 利用地名にもただ単なる遠望によって行旅水運の目標としたものから、ウルイ沢・ 鷹 ( たか )の 巣 ( す )山の類の採取物によったものまで、幾つかの親しみの差等はあるが、とにかくに人が生活の交渉に基いて、入用のあるほどずつ名を設けていたお蔭に、いよいよ占有によって新たなる名を定めるという際にも、格別の不自由を感じなかったのである。 地理の学者方にとって興味の多いのは、おそらくはこの利用地名のおいおいの増加、及び変化であろうと思う。 現在はこれがほとんと皆ある時代の占有地名に採用せられ、または分割地名に踏襲せられて残っているので、よほど山の中にでも入らぬ以上は、これを発生当時の状態において考察することができない。 この点がまたアイヌ等の地名と比べて、我々の地名の意味を取りにくい原因の一つになっている。 例でいうならば鏡岩という珍しい岩があって、そこだけを元は旅人が鏡岩と呼んでいたのが、後にその周囲の山林を独占した者が、これを採用してわが持地の名にしたとすると、その区域の全体には鏡岩の特徴はない。 それが岩だからまだ永く残ってもいるが、樹であったら枯れ、鳥や虫であったら飛び去って再び来ないかも知れぬ。 こういう地名の拡張が大きければ大きいほど、命名の本意は埋もれやすいので、地図の比較や写真の排列だけでは、郡や町村の名の由来はとうてい帰納することができない。 これが私たちの特に小地名の保存と確認とに、重きをおこうとした 所以 ( ゆえん )であった。 地名発生の理由には右に申す通り明白なる時代の変化があった。 今でも新たに鉱山師や登山の団体が、いわゆる利用地名をこしらえる場合がないとは言われないが、たいていはもはや不必要なる重複であり従うて人が承認して永く伝えてくれる望みは乏しい。 というわけはその地にすでに地名があり、それも皆相応に細かく区劃した地域地名であって、もうその中へ新たに割り込んで行く余地がなくなっているからであった。 在来の地名は住民との親しみも深くまたその趣旨も一段と適切であったろうから、新しいものがこれに取って代ることができないのは結構なことである。 ただし我々はこれがために必ずしも新たに考案せず、できるならば今まであるものを踏襲し、またその用法を拡張しようとしているために、同じ分割地名でも隣どうし古いものと新しいもの、また年齢の異なったものが入り交って、一つの方法だけでは解説がしにくくなったのである。 だからこれからの分類には、まずやや命名の趣旨の複雑に見えるものを脇へ 除 ( よ )け、人がその地域を占有してしまう以前から、すでにあったろうと思われるものの中でも、来由の知れているものを次々に引き去って行けば、結局は我々の知ろうとするものだけが、自然にその意味を自ら語るようになろうと思う。 これを具体的に言うと、何田とか何々屋敷という地名はなかなか多いが、これはその土地が田になり屋敷になってから後にその特徴に名づけたものだから別にしておいてよい。 また何々塚・何石・何岩の類は、これも一里塚なり岩なりの名になっていたものを採ったのだから、塚や岩の命名法を調べる人に 委 ( ゆだ )ねてしまってもよい。 その次に非常に数多くあるのは、樹の名・草の名を地名にしたものであるが、これもそういう植物があればこそそれを注意したのだから、その方面の研究者でなければそれ以上に立ち入って考えずともよかろう。 こういう風にして素性のほぼ解った地名を片端からのけてみると、その残りの分はよほど始末がしやすくなる。 もっともこれにも若干は不思議な形のものが交っておろうが、だいたいにおいて同じものの数さえ多ければ、比較によってしまいには意味が判明するにきまっている。 ただそのような面倒な仕事を、誰が試みるかが問題となるばかりである。 そこで私のまだやりかけの実験をいささか御参考までに述べておくのであるが、全国の小地名表は、以前集められたものは惜しくも焼失したけれども、その後一地方限りで再び採録したものが、郡誌・村誌の類においてそちこちに印刷せられている。 また集めてみようとすれば集められぬことはない。 長野県の東筑摩郡などは、前年私が勧めて全部の地名を残らずカードに取り、目下しきりにこれを整理している。 これらをやや離れた土地から持ち寄って突き合せてみるのが、一つの方法であろうと私は思っている。 そうするとだいたいに三通りの差別が誰にでも必ず目につくであろう。 すなわちその一つは奥州にも中国にもまたは四国・九州にも、共通して存する地名、これが数において案外に少なくない。 第二はそう広い一致はないが、ある地方に限ってはいくらでもある地名、たとえば 飛騨 ( ひだ )でホラといい 豊後 ( ぶんご )でツルという類の、これを限定する始めの語には変化があっても、その主語だけは何十となく、わずか一村の内にも並んで存するもの、この二種はわが邦の地名を調べてみようとする人の最初に手を着けてよい部分であってこれが明らかになればまず仕事の半ばである。 それから今一つ真の突発的の、他ではいっこうに聞いたことがないというものがあって、それに何人も気を取られるのであるが、これには何か特殊な事由があったとすれば、強いて知ろうとしても急に判りもすまいし、あるいは実際はさして珍しい例でもなかったとすれば、後においおい知れて来るだろうから、とにかく当分はそっとしておいてよい。 前の二通りのものだけは幸いに類例が多いのだから、その共通の点を押えて行きさえすれば、次第に命名の趣意を明確にし得るだけでなく、さらに進んでは日本にはいたって乏しいものと認められている若干の地形語を、今において復活利用し得る見込みさえあるのである。 私などの最初の期待では、これほど繁雑を極めた固有名詞だから、これを構成する普通名詞の数も、また相応に豊富なものであろうと思っていた。 ところが表にこしらえてみた結果、それが存外に少なかったのでがっかりした。 我々日本人がその利用地名を作るために、古くから使っていた単語の数は、地方の隅々に近世になってから使い始めたものまで合せても、せいぜい百余り、百五十にはまだ届かなかった。 それにいろいろのありふれた形容詞を 副 ( そ )えて、この全国の利用地名の半分ばかりこしらえ、それがまた踏襲せられて占有地域の地名ともなっていたのである。 これがむつかしく解しにくいもののように感じられたのは、その数量と新旧の 錯綜 ( さくそう )、及び用法の変化の複雑さに基いた一種の 眩惑 ( げんわく )であった。 すべての社会現象は皆そうであるが、丹念な分類さえしてみれば事実の把握はそう難事でないのであった。 二三の実例を挙げるに先だって、一応前に述べたことを要約すると、地名の必要には三期があって、一期ごとに若干の新命名は出現したが、人はその煩労を節約すべく、毎回必ず若干の旧地名を採択保存することを心掛けたのである。 その結果としてある一つの時代の横断面には、新旧年齢のきわめて 区々 ( まちまち )なる、命名の趣旨の最も著しく相異した地名が、入り組んで頭を出しているのである。 それを一つの心持でほぼ同じ時期に、地名を附与した異民族の場合と、同様な態度をもって点検したのが誤っていた。 ゆえに改めて発生学的方法により、ほぼその種類の別を立ててみるのが順序であった。 ひとり地名の起りには限らず、おおよそ物の名の入用は、それが眼前に横たわらず指でさし 顎 ( あご )でしゃくって問題を明示し得ざる際にも、なおこれを相手の胸に描かせる必要から始まっている。 占有の地名が利用のそれにおくれているはもちろん、同じ利用の地名でも耕作は最後のもので、いちばんに古いのはおそらくは通過行旅であった。 時々の採取や捕獲などに関する地名も、それよりは後の発生であったろう。 地名増加の過程はこの方面からでも推測し得られるが、それが同時にまた単語の分布の、全国的なものから次第に一地方的なものに移って行く理由でもあったゆえに、個々の地形名詞それ自身に、おのおのその歴史を語らせることも不可能ではないのである。 たとえば京都の文献に現われている幾つかの土扁・山扁の漢字は、今も標準語として承認せられているものが多いが、これは皆案外に初期のものであって、 畢竟 ( ひっきょう )は都市住民のさまで精細なる地域地名を要求しなかったことを示している。 従うて日本の地理学者たちが、これだけの文書用語のみによって、今までその学問を説明して行かれるものと思っておられたのが楽観に失し、地名知識の整理と活用とが、今後においてもかなり必要なものだという結論にもなるのであった。 地理学上の名詞の最も多く保存せられている記録は、古いところでは『 新撰字鏡 ( しんせんじきょう )』や『 倭名類聚抄 ( わみょうるいじゅしょう )』それから大分おくれて『 伊呂波 ( いろは )字類抄』などが、後々増補してほぼ現存の標準語の数を 悉 ( つく )しているように見えるが、これを計量してみれば 何人 ( なんぴと )にも判るであろうごとく、その三分の二以上は単純な利用地名、すなわち遠望の目標として、または交通の難易等によって、旅人の話題となったものである。 実際の土地利用者、ことに最もよく働いた開墾者たちは、別にこの 語彙 ( ごい )以外をもって彼等の用語を考案しなければならなかったのである。 いわゆる方言の風雅の士にやや軽んぜられたものが、諸国に競い起ったのも必要のしからしむるところで、それがまたいっそう我々の地名を面倒なものにしているのである。 だから分類の第一着手においては、私はまず若干の最もありふれたる地形語と、結び付けられている地名だけを第一類として、その個々の用途を考えてみようとしたのである。 山・岡・谷・沢・野・原などという語を下に持った地名は、だいたいに皆開発の以前からあったものと見てよかろうが、その中でも実例がことに多く、意味に著しい変遷があったらしいのは「野」という言葉であった。 これは漢語の野という字を宛てた結果、今では平板なる低地のようにも解せられているけれども、「ノ」は本来は支那にはやや珍しい地形で、実は訳字の選定のむつかしかるべき語であった。 白山 ( はくさん )の 山彙 ( さんい )を取り 繞 ( めぐ )らした飛騨・越前の大野郡、美濃と加賀との旧大野郡、さては大分県の大野郡という地名を見ても察せられるように、また花合せ・ 骨牌 ( カルタ )の八月をノという人があるように、元は野(ノ)というのは山の 裾野 ( すその )、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。 火山行動の最も敏活な、降水量の最も豊富なる島国でないと、見ることのできない奇抜な地形であり、これを 征御 ( せいぎょ )して村を興し家を立てたのもまた一つのわが社会の特長であった。 野口、入野という類の大小の地名が、山深い高地にあるのもそのためで、これを現在の野の意味で解こうとすると不可解になるのである。 大野は久しい間開き得なかったので地名になったのかも知らぬが、これに対立する小野という地形こそ、最も移住民の落ち着いて開きやすいものであった。 小野は全日本に最も弘く分布している地名であって、その起りには新旧の二通りあって、東北地方のものはあるいは新しい方かとも思うが中央部以西には古い小野が多い。 周防 ( すおう )と 長門 ( ながと )との境などに行ってみると他地方で沢と呼び谷というものが皆小野になっている。 それから近畿地方、ことに山城の京の周囲にも小野は幾つかある。 近江 ( おうみ )と接した山間部の小野は、始めて支那に使したという小野 妹子 ( いもこ )の子孫が住んでいた。 これだけはあるいは家名がもとで、地名はこれによって起ったようにも考えている人があろうが、少なくとも地形は他の諸国の小野と一致している。 ここに住んだ小野氏は珍しい家の歴史を持っていた。 記録と現実とのともに示すところでは、この家の末流には隣郷に住んでいた 猿女 ( さるめ )氏と縁組して、宗教生活に入って行った者が多かった。 それが故郷を出て南北の辺土まで漂泊し、一種の神道を説きあるいて到る処に神を祭ったのが、今も諸国の御社の祠官に、小野という旧家の多くある原因になっている。 そうして武蔵七党の横山氏を始め、これから分れて出て繁栄した家も少なからず、一方にはまた日本の民間文芸に、一種美麗なる色彩を帯びさせることにもなったことは、私が前年以来大なる興味をもって説き立てているところであるが、これにもまた「ノ」という地形の人生と交渉をもった痕跡が、かなり濃厚に残り伝わっているのである。 これと同様の事情はなお他の幾つかの地名の普及を促している。 たとえば東国奥羽において沢といい、西南日本において谷というなどは、ともにその字義から見ると天然の力ばかり強く人の 棲息 ( せいそく )には向きそうもなかったらしく思われるが、実際はかなり古い部落、もしくは耕地の地名となっているものが無数である。 我々の農作は当初自然の水流を利用するために、好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に 拠 ( よ )る所のある最小の盆地を求めたゆえに、上代の植民は常に川上に向って進む傾向をもっていた。 それが人多く智巧が進み、一方平和の保証が得らるるようになって、始めて立ち戻って低湿広漠の地を経営することになったので、今日の農地の主要部をもって目せられるものは、どこへ行っても皆三百年この方の新田であった。 これがおそらくはまた水田地方の地形語の、常に方言として割拠している理由と私には考えられる。 沼地・湿地を意味している地形語は、その応用は限地的には非常に盛んであるが、一たび境を越えると相隣してしばしば変化している。 たとえば東北地方では最も多いヤチという言葉はあるいは 新村 ( しんむら )博士の説のごとく古い由緒のある日本語かも知れないが、少なくとも箱根を越えて西へ進むとその使用は見られず、これと音の近い語も内容がまるでちがって来て、語原が一つだという証明には骨が折れる。 九州ではこれに対して別にムダという語が普及しているが、これも東に向って来るとその語音は変化し、長門ではウダ、土佐でもウダ、京都の近くにも宇多という語は古くから多く、武蔵と 甲斐 ( かい )の一部ではそれがヌタまたはノタとなって湿地を意味している。 猪 ( いのしし )を撃つ 猟人 ( かりうど )のよく知っている言葉に、ヌタともノタともいうのはまた同じ語だったかと思うが、これだけは九州ではニタと言って区別している。 それからまだ中央部にはクテという語があって湫という字をあて、これも開けば田になるような湿地を意味し、また現在すでに田になっているクテもある。 クゴとかフゴとかいう地名もこのクテの地域からいくらも離れない地方にあれば、なおそれ以外に山形県でヒト、島根県がシノトという類の、他府県の者には解しがたい地名で、いずれも同じような地形を意味するかと思うものが十種ほどもあるのである。 地名発生の必要が地方的であった以上、京都の文筆の士が 与 ( あずか )り知らぬ言葉が、残っていたことに不思議はないのであって、これを方言だから別に正しい標準語がありそうなものだと思って待っていたならば、いつまでも地名は解らぬであろう。 私が今までやって来た仕事は、この地名の地方的特徴を表にしてみようとすることであった。 地理の学徒としては単に九州のムダと近畿・中国・四国のウダと、関東のヌタとが同じものだということを知るに 止 ( とど )まらず、将来「湿地」などという急造語を使う代りに、何か一つの語を採って土地の農夫たちと、心おきなく話のできるようにしなければならぬのだが、それにはそのいずれを標準とするかについて、停車場設置の時のような争奪が起ろうも知れぬゆえに、もう少し 丁寧 ( ていねい )に国語変遷の歴史を見なければならぬのである。 諸君はだいたいにすでに地名の社会的法則というようなものを認められたであろうが、なおこういう地方的の異同を目して、土地人が気紛れに新語を考案した結果のごとく、考えられないとも限らぬ。 ところが実際は必ずしもそう人は 我儘 ( わがまま )なものでなかった。 単に都市人が自分に入用のないために、忘れて書冊には書き伝えなかったというのみで、古い日本語が偶然に、ある土地だけに残っていたという場合もずいぶんあるのである。 以前も一度ならず私はこれを説いているが、畠作農業が人口の増加につれて、次第に重要になって来たお蔭に、このごろ始めて気付かれたカガという地形語がある。 中国の各県と四国の一部ではコウゲと称し、これに芝または原などの漢字を宛てている。 その字の暗示するごとくやや高燥な草原であって水利の土木工業が大いに進まぬ限りこれを田にする見込みはほとんとなくわずかに多雨の年を頼りにして麦豆類を作るか、さもなければいつまでも草原として草でも刈っているの他はなかった。 それが近世に入って小面積のコウゲから、おいおいに 常畠 ( じょうばた )とし、 稀 ( まれ )には遠く水を引いて田にもしたのである。 中国地方の近世の地誌を見ると、このコウゲの語原がいろいろと想像してある。 それはいずれも皆新しくできた語と認めていたからで、古来の日本語ならばそんな無益な労苦をするはずはなかったのである。 ところが秋田・青森の二県では、ちょうど中国のコウゲに当る地形を、カヌカと呼んでいることに私は心付いた。 カヌカは土地によって鹿糠などの字を宛て、アイヌ語ででもあるかのごとく思っている人も多かったが、これをカノカともカッカとも、またカガともいっている地方があり、一方には出雲・ 石見 ( いわみ )でもコウゲ茶をカッカ茶ともいうから、この両端の用語はもとは一つであった。 そうしてこれが国の名の加賀や、 足利 ( あしかが )のカガなどを説明するらしいから、決して新しく生まれた単語ではなかったのである。 現在の標準語においては生硬なる近年の造語までも引っくるめて、まだコウゲまたはカッカを廃してその代りになるものができていない。 原でも芝生でも草生地でも、ともに幾分か意味が広くなるを免れない。 入用があればこそこんな語が田舎には残り、都市では入用がないためにいつの間にか忘れていたのである。 今後はやめて別の語を案出するのも勝手だが、少なくともそれ以前に一度、どういうわけでこの語が生まれたかを、考えてみるだけは学者の義務である。 そこで最後にただ一言、近年の人文地理なるものの成長ぶりを批評してみたい。 以前私などの学校にいた頃にも、こういう名の学問はあるにはあったが、それはただ統計の要約でありないしは現状の記述に止まっていた。 しかるに人が一たび何ゆえにかくのごとくであるかを 訝 ( いぶか )り問わんとするに及んで、学問それ自身がかなり 煩悶 ( はんもん )をしたようである。 大地の表面は隅から隅まで、ことごとく人類去来の足跡であり、無名の 彫塑 ( ちょうそ )家の 篦 ( へら )の 痕 ( あと )であるはずだが、それがどういう順序と計劃の下に行われたかに至っては、多分の臆断を 傭 ( やと )わざればこれを説明するに由なかったのである。 そのためにせっかく事実の観測を足場とする自然科学が、ここに来ると 忽然 ( こつぜん )として「先生の仰せある通り」という昔風の賢人崇拝に陥る懸念があった。 地名はこれに対しては一つの有力な救いの綱である。 ことに日本のごとく豊富なる資料を擁し、しかも今日まで 蓋 ( ふた )を明けてもみなかった国では、この学問の未知数はまずすこぶる頼もしいものである。 億を越えるかと思うこの我々の地名は、いかに微小なものでも一つ一つ、人間の意思に成らぬものはない。 始めてこれを命名した者の判断と批評とがその群の大部分によって是認せられ、 遵奉 ( じゅんぽう )せられたという事実だけは立証している。 そうしてその中には前に例示するごとく、五十年前のものもあればまた千年来のものもあり、さらにその中間の各段階を代表しているものもあるのである。 いわゆる人と天然との交渉をこれ以上綿密に、記録しているものは他にはないわけである。 これを利用もせずに郷土の過去を説こうとする人が、今でも多いということは私には何とも合点が行かない。 ただしこの資料の利用のためには、若干の予備作業の必要であることは事実だが、それを面倒くさがって突き飛ばそうとするような学者が、今の世の中にそう多くあろうとは思われない。 これは何でも方法に関する意見が一定せぬのである。 だからまずこの点を討究しておく必要があると思う。 私の 勧説 ( かんぜい )してみたいのは、精細なる限地的の調査に伴のうて、ぜひとも遠近の各地方の事実を比較することである。 最近の雑誌類では、人がわが居村の地理を詳しく知ることをただちに郷土研究と名づけようとするらしく見えるが、それでは郷土研究は単に在来の地理学の別名に過ぎぬことになりはせぬだろうか。 地理でなくとも学問は進めば必ず細かくなるが、ことに地理学は土地の上の事実を知るのだから、郷土研究と言わなくともそうするのが当り前である。 単なる流行を追い人をいい気にならせる以上に、わざわざ郷土研究などと呼ぶ理由はないのである。 私たちがこの語を使っている趣旨は実は別にあった。 それは孤立の割拠的調査が、いかに郷土人の深い同情と理解力とをもってするも、なお現実の疑惑を氷解するに足らぬことを知るにあった。 各郷土の収穫を綜合し、遠く離れて住む者の相助と交通とによって、新たに獲たものを互いに利用するにあらざれば、いつまでも事実の記述以上に人を賢くすることができぬことは、地名の問題がおそらくは最も適切に例示している。 前途に遠大な目的をもつ人文地理のような学問が、いつまでも片隅の精密を競争していることは、どう考えてみても学界の慶事ではない。 一日も早くそんなところで安心してはおられぬことを感じさせ、同時に郷土研究の全国的意義を明確にするためにも、私は地名の興味がもう少し諸君の間に普及せんことを 祷 ( いの )る者である。 諸君が地名の話を誰かから、一度詳しく聴いてみたいと思っておられる動機は、自分にはおおよそ想像することができる。 この県では一昨年大分の手数と金とを掛けて、明治十五年の『愛知県地名調』を印刷して頒布せられた。 それをめいめいが手に取って一覧すると、なるほどこれは綿密な調べで、これを 纏 ( まと )めて一巻の書冊とした人々の労苦は察するに余りあるが、さて次に起る疑問はこれが何になるのか。 方今 ( ほうこん )一国の急務と認められている郷土の研究に、いかにしたらこれが利用し得られ、県民としてわが住む土地の実状を、理解せしめる手段または資料となるのか。 要するにかような面倒を 厭 ( いと )わなかった教育会の事業が、果して徒労でなかったという証拠はどこにあるのかということである。 これはおそらく自他ともに、答えずにおいては気持のよくない問題であろうと思う。 この近隣の幾つかの府県では、もっと大きな金を使い時間を費して、やはり同じような無言の詰問に悩まされている。 各郡ではまた郡制廃止の記念とし、やはり 厖大 ( ぼうだい )な郡誌などを 編輯 ( へんしゅう )公刊して、その序文にはいずれも郷土研究の抱負が掲げてある。 しかもこれによって一般の認識が、新たに増進した様子はいっこうにないのみか、実はそれを一読した人すら、まずはいたって 稀 ( まれ )と言ってもよいのである。 これに比べると地名調などはまだまだ話が楽である。 第一に事が小さい。 第二にはこれによって郷土の過去に関する知識を新たに学び知る方法は、もうおおよそ目安が立っている。 必ずしも百年後世の学者に委付せずとも、我々だけの力でも相応にこれを利用する途があって、大へん結構な出版であったということを、同時代の人々からも言われることができると私は思う。 そうしてその点をあたう限り具体的に説明してみることが、おそらく諸君の期待に 副 ( そ )う 所以 ( ゆえん )であろうとも思っている。 最初の出発点は、地名は我々の生活上の必要に基いてできたものであるからには、必ず一つの意味をもち、それがまた当該土地の事情性質を、少なくともできた当座には、言い表わしていただろうという推測である。 官吏や領主の個人的決定によって、通用を強いられた場合は別だが、普通にはたとえ誰から言い始めても、他の多数者が同意をしてくれなければ地名にはならない。 親がわが子に名を付けるのとはちがって、自然に発生した地名は始めから社会の暗黙の議決を経ている。 従ってよほど適切に他と区別し得るだけの、特徴が捉えられているはずである。 ところが現在の実際はどの地方に 往 ( い )っても、半分以上の地名は住民にも意味が判らなくなっている。 世が改まり時の情勢が変化して、語音だけは記憶しても内容は忘却せられたのである。 過去のある事実が 湮滅 ( いんめつ )に 瀕 ( ひん )して、かろうじて復原の端緒だけを保留していたのである。 もう一度その命名の動機を思い出すことによって、なんらかの歴史の 闡明 ( せんめい )せらるべきは必然である。 だから県内の地名はどのくらい数が多くても、やはり一つ一つ片端から、その意味を尋ねて行く必要もあり、またその興味もあるわけである。 これが現在はまだなかなか容易でない仕事のように考えられている。 一つの部落ないしは一つの盆地において、かりにいかほど熱心な郷土研究者がいても、よく自分の周囲の地名を理解してそれから昔あった事、すなわち祖先以来の辛苦経営の跡を知り尽すという望みはまだ持てない。 たまたま独断をすれば自分すら信じあたわざることを言ってのけなければならぬことになるであろう。 私などの方法は、甲乙なるべく縁の薄い遠方の同じ地名を、幾つも比べてみて自然にその意味を 覚 ( さと )ろうとするにあるのだが、これは労が多いのみでなくその途がまだ備わっていない。 たとえば明治十五年の前後には、内務省の地理局長が全国の府県に 移牒 ( いちょう )して、これと同種の郡町村の字名調べをさせているのだが、この県のごとくその複本が保存してあり、時至ってこれを謄写版に付したというのは他ではまだ聴いていない。 中央に集められていた全国の地名調数千冊は、非常に貴重なまた 浩瀚 ( こうかん )なものであったが、これは何人もまだ精読してみないうちに、惜しむべし大正十二年の震災で丸焼けになってしまった。 だから各地に愛知県同様の篤志家が輩出して、互いに知識の交換をするを期待しなければならぬのだが、地名のごとき煩雑なものについて、そういう比較研究の起るのは程遠いことである。 やむなくんば東西数十里にわたり、海もあれば 山家 ( やまが )の奥在所もあり、旧藩の所領も幾つかに分れていたという大きな一県において、全県共同にこの問題を考えてみるということが、ある程度までは地名の歴史的価値を高め得る途かと思う。 それにはたとえ僅少の部数にもせよ、尾参両国の隅々まで、一時に綜覧し得られる一巻の地名表が公刊せられたということは、愛知県の史学のために慶賀してよいことなのである。 ただし一応前もって承知しておかれなければならぬことは、この『地名調』の地名は全部でもなくまたすべてが皆古い歴史をもつ地名でもないということである。 明治初年の土地丈量の 顛末 ( てんまつ )は、聞いて知っておられる諸君も多いことと思うが、村々の地名には住民の耳に記憶せられるのみで、書いたものには伝わっていない処が、あの頃まではずいぶん多かったのである。 それを土地台帳の作成と同時に、全国一統の一間一分の絵図に引き直したのが、明治新政を記念するあの大きな検地事業であった。 村絵図はあまりに大き過ぎるところから、複本を切絵図として出し入れに便にし、今でも役場では盛んにこれを使用している。 その切絵図には一枚ごとに地名を附けた。 それが現在のいわゆる各 大字 ( おおあざ )内の字になっているので、従前の村の小区劃とは喰いちがっている。 土地によってはもっと小さな数多くの字があった。 切絵図にはそれが合併せられ、また山や原野では、大きな一字が何枚にも分割せられている。 諸君の手元にある『愛知県郡町村字名調』なるものは、実はその新しい切絵図の字を集めたものである。 地方によってはそれを甲乙丙丁や番号にしてしまった村もあるが、この県などではだいたいに以前の地名を踏襲し、たまたま合併分割によって、適当なる総称が得られぬ場合にのみこれを新設したことは、ちょうど新町村名と各大字名との関係によく似ている。 だから諸君の個々の郷土において、この地名をして歴史を物語らしめようとせられる際には、あらかじめこれが明治九年に新たに設けられたものでないことを確かめないと、しばしば無理な推測をする危険があるのである。 古い地名はそう乱暴に、棄てたり変えたりはしなかったことと思うのが、切絵図作成の都合上、しばしば区域は削られたり脇へずれているのである。 従って池の上という字が池の下に及んだり、 長久手 ( ながくて )という地名が実は短い 湫 ( くて )、即ち湿地をしか含まぬということもあり得るので、こういう一見して意味の判るものはよいが、さもなければいよいよどうしてこんな字ができたかを解するに苦しむ場合が多くなるのである。 それよりも注意しなければならぬことは、こういう人煙の繁く栄えている地方では、古い由緒のある多くの地名が、ほんの偶然のことから公簿の上に載せられず、今はまだ故老の記憶しているものがあっても、後おいおいに公けの知識から消えて行くことである。 それを知られている限り拾い集めておかぬと、村々の地名研究は完成せぬのである。 そうしてこれがいかなる歴史を教えてくれるかを考えるには、全県の地名調はやはりいつまでも大きな支援を供与することと思う。 個々の地名の起原に関しては、かつて自分の地理学会で講演した筆記が出ているから (前章参照)それと重複した話はできるだけ避けて、主としてこの県に関係のあることのみをお話しようと思う。 地名はどこの国でも、普通にはまず地形によって附ける。 それが間に合わなくなっておいおいに他の材料を加味して行くのである。 近い例を引くならば、アイヌなどは耕作がいまだ進まず、居住以外の目的で土地を区劃し、または永くこれを占有することがほとんとないから、地名は数も少なくまたきわめて単純である。 行旅には目標があれば十分であり、狩猟その他の採取経済においては、場処さえ記憶し得られ、かつ他人とその話ができればよいのである。 そういう地名には努めて具体的にその土地の性質を指示するものを 択 ( えら )び、解説や打合せの入用な、符号式のものを避けるから、誰が聞いてもその意味を捉えやすい。 これに対して生活機構の複雑になった社会では、原因動機が 区々 ( まちまち )になっているから、そう簡単に地名を理解することができぬのも当り前である。 その中でも日本はことにその点が厄介で、後にはとうてい不可解なものと見切りを付けたり、または勝手放題な地名考を発表する者を制しきれない事情があった。 アイヌの地名がたくさんに残っているという説なども、実は語音の近似を説き、ないしありもせぬ内容をその土地の上に想像したりするだけでは、実はまだ証明にはならなかったのである。 現在の住民を 北夷 ( ほくい )の 後裔 ( こうえい )だと認めない以上は、そうしたアイヌ語が伝わって今に至った手順も想像してみなければならなかった。 それにはある時代二種の民族が共棲し、一方は他から旧来の地名を教えてもらって、それを採用するだけの交際があったことを示さなければならぬし、さらにまた人の生活がどのように進んでも、以前の名称を以前の土地に付けておいて、差支えがなかったということをも確かめる必要があったのである。 人が新たに土着しまたは開墾をして、地を劃し堺を交えることになると、それにはぜひとも双方の地名が設けられねばならなかった。 私はこれを地区名と呼んでいるが、これはたいていの場合、未開人には入用がなかったのである。 地区名にはもちろん在来の地点名を、できるだけは承継しようとしたであろうが、それの不可能な場合がいくらもあった。 第一には地点名は、黒岩とか二本杉とかいう類の狭い場処だけしかさしておらぬのを、引き延ばしてずっと広い区域の名とすると、物と名前との関係が不明になって行く。 長野は山の 麓 ( ふもと )のやや続いた緩傾斜地のことであったろうが、そこに御寺の大きいのが建って 繁昌 ( はんじょう )すると、後には市の名となって、谷陰にも大川の岸にも及び、さらに県庁が設置せられると、後には広い信州一国の県名とさえなった。 日本六十六国の国号が、大部分は意味不明になったのも、原因はあるいはそれであったかも知れぬ。 それから第二には大きな地区に、今まで一つか二つしか地名がなかった場合、これを小さく分けて次々に開いたり、または幾つかの異なる民居を置くとすると、踏襲をしたくとも旧名がなく、新たに地形によって名を下したくとも、一望同様式でこれという特徴のない場合もあり得る。 中世以後の開発は沼を埋め草原を苅り払い、一時にたくさんの地区名を附与しなければならぬ場合が多かった。 今ならば数字でも番号でも打つところだが、昔の人はそれを好まなかったので、いろいろ工夫をして新名をこしらえた。 これが名を聴いてすぐに場所を知りがたく、特に由来を尋究しなければならぬ地名が、進歩した社会ほど数多くなって来る所以であって、またその新旧の錯綜した地名を、ただ一本調子にアイヌ語ばかりで、説こうとせられては困る理由でもある。 そうして我々常民の永い歴史も、実はこの複雑な不可解の下に隠れているのである。 これを発掘して行くためには、順序としてまず始めに第一種の地名、すなわちもっぱら地形を表わす単語から、組み立てられている地名を、別に取り除けて整理しておかねばならぬのだが、これにも日本にはいまだ二三の小さな困難がある。 日本は地形の珍しく複雑な国で、これを経営した国民の態度なり方法なりも、時代によって変化し、従って名の付け方も各地一様でないのだが、中央の学界へはその事実が、ただ一部分しか知られていなかった。 旅行のあまり得意でなかった京都の文士たちには、入用もなくまた見たこともないという地形語が、昔からかなり多かったようである。 『 倭名鈔 ( わみょうしょう )』の山谷類や林野類などの中にいまだかつて想像せられず、『 新撰字鏡 ( しんせんじきょう )』の山扁やサンズイの中に採録せられてもいないいろいろの地形が、田舎にはちゃんと語ができて弘く用いられており、またその言葉にも永い歳月の間に、少しずつの地方的異同を生じた。 書物を読んでいただけではこういう地形語は解しがたい。 それゆえにやはりそれぞれの実地に就いて、まずその方言の内容を学ばなければならなかったのである。 しかし方言とはいっても、知らぬのは中央の文筆の人だけで、地方はどこへ往っても通用しているものがあり、中にはまた中部とか九州とかだけならば、誰でもよく知っているという語がある。 これは地理学の要求から言っても、将来必ず標準語として採用し、我々の 語彙 ( ごい )を豊富にしなければならぬものである。 一つの例を挙げると、日本は米作国で人は常に水田適地を捜しまわっていた。 それゆえに湿地・ 沮洳地 ( そじょち )を意味する単語の入用は外国よりもはるかに多く、従ってまたこれから作った固有名詞が無数にあるのだが、中央の辞典には一部しかそれが出て来ない。 古く記録に見えるのはウダという語で、それは大和でも山城でも、すでに郷名・郡名にさえなっている。 この語はわずかな変化をもって、今も弘く東西に行われ、九州の西半分ではこれをムダ、 藺牟田 ( いむた )・大牟田などと通例は牟田の字を宛て、東九州では山中の湿地だけをヌタもしくはニタといっている。 古い語だとみえて同じ語は関東にも分布している。 甲州街道の黒野田・北多摩郡の 大岱 ( おんた )などの類は数多く、怒田という字を宛ててもいるから、ヌタというのが普通だったらしいが上州の 下仁田 ( しもにた )だの伊豆の 仁田 ( にった )四郎だのと、特に新田のニイタと差別しようとしたニタもある。 本来はいずれもウダと一つの語であったろうと私は思う。 ところが愛知県の『地名調』をざっと目を通して見ると、尾参にはこの語は行われなかったか、少なくともこれを地名にしたものがいっこうに見当らない。 しかも後年開いて田にした湿地は、浜にも山間にも非常に多いのである。 それをこの地方では以前は何といっておろうか。 誰にもすぐ心付くのは湫の漢字を宛てたクテまたはグデである。 有名な東春日井の 長湫 ( ながくて )から、北は中仙道の大湫あたりへ掛けてこの地名はかなりたくさんに残っている。 三河部にも久手と書いて、今はキュウデと呼ぶものもまじっているが、その数は決して尾張に劣らず、また隅々の村にまで及んでいる。 ところが注意すべきことにはこのクテという単語は、単にこの平野一帯だけの方言であって、信州には少しあるようだが他の遠くの府県には及んでいない。 何か基くところはあったのであろうが、とにかくに人がこの地方に入って来てから、作り出した言葉であるらしい。 すなわちアイヌ語起原論者の 口吻 ( こうふん )を借りていうと、古くクテ人種の住んでいた土地などということになるかも知れぬが、もとよりそういうもののあろうはずはない。 ただしクテと同じであろうと思う水づいた低地を、フケといいフゴまたはクゴといい、あるいはアワラともドブともいう人のいたことは、地名によってこれを 窺 ( うかが )い知ることができる。 フケは泓とか かという漢字をあてて、クテよりははるかに広く行わるる地形名である。 京都でも昔富家と書いた地名がよく知られており、関東の方でも足の入るような泥田を、今も一般にフケ田といっている。 クゴもしくはフゴという語は、他は知らぬが北陸道には行われ、しかもフケという語と併存しているから、あるいは一語の分化したものかも知れない。 アワラという地名はこの県などがたいてい西限であって、東は甲信から関東に及び、また北国にもわずかの例がある。 水が近くにあって交通は妨げるが、山中でない限りは開いて田にしやすい地形を意味している。 ドブというのはあるいはそれよりも幾分水が多く、泥沼ともいってよい地形かと思うが、とにかく東京の北部から埼玉県一帯では、耕地の字の名として盛んに利用せられている。 これがトンボとなりまたはタンボとなると、新たに別の意味を生ずるかも知らぬが、少なくとも今日下水をドブという東京語は、本来は単に田になる地形の名であったと言ってよい。 そこで改めて地名の分布という問題になるのだが、もしもこれらの湿地を意味する語または地名が、同じ一つの部落に併存しているならば格別、かりに部落ごとに異なる語が行われているとしたら、その事実はあるいは住民の入って来た方角を、暗示することになるかと思う。 すなわち東三河のようにクテはやや少なく、クゴという語の多く存する土地の人は、北隣諸県のその語を使う土地と縁が近く、アワラという語を知る山間の村々は、この語のまったくない西の方の国から移住した者ではないということになり、それと同時に、クテを普通名詞にも固有名詞にも用いている人々は、かなり早くからこの土に住んだ者の末であろうという推測を許すかも知れぬので、こんな小さな事実でも、他に書いたものがなければやはり有力な郷土史の史料なのである。 これと同じことは、また居住地に択んだ一つの地形の名についても言われる。 わずかな岡と岡との間で水もあり日当りもよく、外からは隠れて奥へも通りやすいという、中世の農民に最も好まれた地形を、何と名づけているかで日本は幾つかの地方に区分し得られる。 近畿と中国東部ではこれに山中と同様のタニという語を附与し、東海諸国に多いヤツという語はまったくない。 サワは関西では沼沢をしか意味しておらぬが、東半分では谷合のことであり、土地によってはこれをヤツの代りに使っている。 愛知県の地名にはヤツは絶無のようで、サワは主として山渓の意味に使われている。 そうしてそれ以外になおタニもあれば、一方にはまたホラもありクボもあり、ハザマという語は有名な 桶狭間 ( おけはざま )以外に、三河部には 算 ( かぞ )えきれぬほどもある。 この特徴は別に原由があり、必ずしも地形の天然のみに導かれたものでなかろうと思う。 ホラという語の盛んに使われているのは、 東美濃 ( ひがしみの )から 飛騨 ( ひだ )の 益田 ( ました )川流域にかけてであり信州も南部には少しあるから、三河とは地域が 繋 ( つな )がっている。 それが大分の間隔を置いて伊豆半島の南半部に、ごく普通に行われているのを私は実験した。 クボという語は西国にもまるでないとは言われぬけれども、多いのはやはりこの国以東の太平洋岸で、ことに東京の四周のわずかな土地が最も目につき、東へ進むとまたなくなってしまうのである。 東京近くでクボという地形は、その外側へ出ると多くはヤツまたはヤト、 上総 ( かずさ )・ 下総 ( しもうさ )等ではサクという語が代りになっていて、これは愛知県にはともにないようである。 サクは九州南部のサコと一つの語であろうと思うが他の地方ではこれをハザマといい、現に大迫と書いて鹿児島地方はオオサコまたはウーザコ、岩手県ではこれをオハザマといっている。 ハザマは関東などでは全然耳にせぬ地名だが、その分布は存外に広く、西は山口県でも盛んに地名になっており、東北にもまたわずかだが 大迫 ( おはざま )のごとき例がある。 むろん東北などのものはこちらが元でもあろうが、何にもせよ甲にあって乙丙の地にはないという地名の幾つかが、ここでまた新しい組合せを見せているということは、いわゆる国内移民の動向を察する上において、ひとりこの土地限りの史料とも言われぬくらいに大切な事実である。 畠作の進歩は日本のような旧国でもやはり新しい歴史であって、それがまたいっこう調べられていない。 これも地名の 鄭重 ( ていちょう )な取扱いによって、少しずつ事実に近づいて行けるのである。 いわゆる常畠の開け始めた土地は、よっぽどいろいろの条件に恵まれていなければならなかった。 それで水田適地に次いで人が早くからこれに注意を払い、従うて地形語が地名となる機会は多かった。 この県では全然遺っていない地名であるが、中国全部と四国の片端にかけて、コウゲまたはカッカというのが水のない草生地のことであった。 村が山から遠くに独立することになって、こういう土地はまず肥料の補給によって、切替畑の利用法から脱却したのである。 この地名は遠く飛んで東北の 尖端 ( せんたん )だけにある。 秋田でカッカ、津軽南部でカノガ、カヌガというのがそれらしいが、ここではまだ常畠の域に入らず、単にたびたびの焼畑作りによって、樹林の絶滅して草芝ばかりになった土地をそういっている。 そうして両地の中間にはもうその語はなくて、わずかに痕跡かと思う加賀国や足利のカガだけがあるのである。 そうすると問題は、中部地方の畠作はまずどういう地形の処に始まったかである。 これには今日の何野・何原という字名も、一部は必ず参加していることと思うが、私たちの注意している他の重要な一つの地名はハバである。 ハバの語原はまだ不明だが、その意味だけはほぼ判明している。 そうして西日本にはまったく知られておらぬ語である。 水の流れなどに接した丘陵地の末端の緩傾斜で、しかも水を引いて田にするまでの便宜のないところ、元はあるいは山腹のわずかな平地の休憩遠望に適し、今日飯場などと書いてハンバといっているものと同じかと思うが、少なくとも近世のハバは居住地に近く、常畠耕作の最も行いやすい地形の名であった。 辞書には方言としてその重要性を無視しているが、それは単に京畿にその語の存せざるためで、これが現今の農業進歩に、寄与した部分は大きかったのである。 こういうと諸君は多分、名古屋の 幅下 ( はばした )を聯想せられることであろう。 自分もそのつもりで話をしているのである。 ハバの下の居住が単なる自然の地形からでも、なお 園圃 ( えんぽ )農業の拡張によって、労力の利用を進めることができる。 まして 城砦 ( じょうさい )の保護があったとすれば、末々繁昌するのは当然であると言ってよい。 ただ考えてみなければならぬことは、ハバが開かれて 邑落 ( ゆうらく )となるには、焼畑用地の不足、人口の余剰、畠作物の種類の増加、農技術の進歩というがごとき、他にもいろいろの条件を要したことである。 単に有力なる武家がその岡の上にいたというだけではなかったのである。 この点があるいは城廓方式の近世の変遷を促した一つの事由ではないかと私は思う。 断崖 険岨 ( けんそ )の上に建ちまたは周囲を川や湖沢で囲んだものは、自身の出入りに不便であったというだけでなく、日常の用品にも早く欠乏しやすい 憾 ( うら )みがあった。 ゆえに一方には商工の徒をも城の眼の下に抱え置いたのだが、同時にある程度までの農作をも営ませる必要があったのである。 東北各地の大藩の屋敷割は、江戸と比べものにならぬほど広かったが、その江戸とても元は山手には多くの常畠があった。 穀作までも若干はさせていたのではないかと思う。 しかしそれがおいおいに 肆廛 ( してん )となり、往還はやや 迂回 ( うかい )しつつ、城のすぐ近くを貫ぬくようになった。 城下が都市と化すべき端緒は、大きな道路とその上に立つ市場とであった。 政治上の理由からその計劃が中断して、地名ばかりが残っている例は多い。 岡山地方に行くと、今は 淋 ( さび )しい田舎となった古城址の近くにも、また繁栄している大小の御城下にも、ともに 山下 ( さんげ )という地名がある。 山下は鹿児島県などの麓と同じように、もと城山の下という意味であったろう。 山科言継 ( やましなときつぐ )の日記などを見ると、あの頃は岐阜城の追手口をも山下と呼んでいたが、後々は東国にはこの地名は消えたようである。 その代りか、もしくは前からもあったか、関東などでは 寄居 ( よりい )といい 根小屋 ( ねごや )と言い 箕輪 ( みのわ )というのが、ともに城下の民のことであった。 箕輪は突出した丘の周囲を取り囲んだ部落の形が、箕の縁に似ていたからであろう。 これと根小屋とはこの県にも大分ある。 今は普通の農村となっていても、かつて岡の上の居城によって援護せられてできたことは、その現形からでも察せられるかと思う。 片端 ( かたは )という地名は一方が城の土居もしくは 濠 ( ほり )ばたになっていて、片側しか人家のない道路であることを意味し、これも西国にはなくてこの辺から東には多い。 あるいはまた片原町、片平ともいう処があり、その起因が不明になって 帷子 ( かたびら )という漢字などを用いているが、その片側はたいていは武士の大邸宅である。 それからまたこの県西部から美濃へ掛けての地名に、竹の花、竹の腰という字名がかなり多い。 これなどもやはり軍略の必要から出たもので、実際に 竹藪 ( たけやぶ )を立てて遠望を 遮 ( さえぎ )り、または人工的に一つの 切処 ( せっしょ )を設けたものかと思う。 関東にも同じ地名があり、また竹を多く 栽 ( う )えていた。 ハナは 塙 ( はなわ )であって川の岸などの迂回をしなければ近よれない地形であった。 イノハナというのも似たような場処で、やはり目隠しの竹を栽えていたのだが、交通機関が改まって今は必要もなく、不便ばかり多いのでおいおいにこれを 伐 ( き )り去り、一つの田舎の風物の特徴が消えかかっている。 岡の片端の 欠潰 ( けっかい )した部分が、しばしば地名となっているのも何か理由のあったことと思う。 遠くからの目標としても非常に有効だが、それよりもやはり戦略上の用途、もしくはハバと同様な経済的理由から、こういう地形に特に注意したのかも知れない。 全国を通じてこれもおおよそ三通りの名の付け方があった。 能登と越中の境などはクエ、崩れることをクエルといったのである。 関東・東北はガケ・ガンケが多く、ハケというのもその系統に属するのかも知れぬ。 九州から四国ことに土佐にかけては、ツエというのが一般のようになっている。 愛知県ではクエはまったくなく、ガケは折々ありまたトエという地名が大分ある。 西国の 津江 ( つえ )と同じ語がここまで来ているので、これから東へ行くと聴くことが少ないようである。 ホキという語は古くから文献にも見え、また広い地域に今も行われている。 これは谷合などの切り立った 崖 ( がけ )のことで、いずれは崩壊に基くのであろうが、年久しいから天然のごとく考えられている。 この地方でも多分その意味に用いているのであろう。 ママという語は関東ではやはり崩れ岸のことで、カケママだのママックズレだのという語もあるが、西へ進むにつれて傾斜地という意味になり、時としては 畦畔 ( あぜくろ )をもママという地がある。 尾参地方でも後の方の意味に用いられているかどうか。 私はまだこれを確かめてみることができない。 それから立ち戻って山間の地名の焼畑・切替畑をいい表わすものを注意しておきたい。 これにもやはり三通りほどの種類があって九州・四国にはコバツクリ、コバキリという語が最も多いが、東国にはその類例がない。 関東四周の山地にはサスという語とソリという語があり、前者はやや狭く武蔵・相模くらいに限られている。 ソリは動詞にしてソラスというのが荒らすことである。 あるいは一つの行為の裏と表とで、三年と五年と山を畑にして作るのがサス、それを再び樹林地に戻すのがソラスであったかも知れない。 いずれにしても焼畑のしばしば行われ、また地形のそれに適する区域を、甲州などは何々 草里 ( そうり )といい、駿河・ 遠江 ( とおとうみ )ではゾウレといって、地図にはよく蔵連などという文字が宛ててある。 それが三河では 設楽 ( したら )・ 加茂 ( かも )の山間にも及んでいるのだから、この地名については東国流だということができる。 それを土地によっては単にソとのみもいう。 豊根振草 ( とよねふりくさ )などのクサという地名が、同じ地方には折々あるようだが、これも多分は切替畑の跡地のことであろうと思う。 こういう名の付くほどの土地は、同じ山側でも比較的 沃土 ( よくど )であり、日射その他の天然条件のよい地域である。 従うていよいよ耕地の不足を感ずると、努力すれば改めて常畠ともなし得たかと思う。 それで今日はすでに民家があり、もはや以前のような一時的耕作はしておらぬので、住人自身までが名の起りを忘れてしまったものもあるかと思う。 夏明 ( なつあけ )もしくは夏焼という地名などもその例で、普通の焼畑は前年の秋に 伐 ( き )って、春早々に焼いて 播種 ( はしゅ )するのに、その年の夏に入ってから焼いても間に合うという処は、よほど地味も肥え日受もよい場所である。 そういう所へは 出村 ( でむら )を企て永住をする者も後には出て来る。 それゆえに焼くという地名が残っていて、実はもうただの耕地にしてしまっているのである。 アラコというのは尾参地方の特色ある地名で、たとえば前田侯の先祖は尾州荒子の産であったというが、同じ地名は紛わしいほどこの県には多い。 これは他の地方と比べると意味がほぼわかる。 関東では原野を開いて畠にすることをアラク起しといい、アラクという字もたくさんにある。 アラコとこのアラクとは一つの語であろうと思う。 西の方ではまったくきかぬ地名であるから、あるいはこの 辺 ( あたり )などが始まりで、すでに足利期から畠を開発して村を作る風が、始まっていたことを 談 ( かた )るものかも知れない。 田の多い村の中に処々アラクを起しただけでは、これが村の名とはなり得ないからである。 ヒラコという地名も愛知県にはアラコ以上に多いが、これは他県に類例がないために、ここで実地を見ないと自分にはその意味が取れない。 東国ではアラクの畠に対して、ホックというのが開墾して田にすることのようである。 ヒラコもあるいはそれではなかろうか。 諸君の比較研究を煩わしたいと思う。 田を開いて村を立てることは、昔からの普通の例だから、これには特別の名はできていない。 関東の方では何々新田というのがその近世のものの名であり、近畿地方には 新屋敷 ( しんやしき )、 今在家 ( いまざいけ )などがそれに該当する。 愛知県は古く開けた土地が多いためか、案外にこの二種の地名が少なく、いちばんよく行われているのが新居という字である。 アライは元はニイイもしくはニイノイといっていたかと思うが、農家をイというのは今風でないから、このアライなども相応に古い新村であったろう。 そうするとかりにヒラコが開田の義であったにしても、それで一村を立てたのは昔のことで、他の多くのものはいわゆる 切添 ( きりそえ )、すなわち旧村の田地を追加したまでであったのである。 地形語を土台にした地名も列挙して行くとまだいろいろあるが、その取扱い方は皆同じだからまずよい加減でやめておこう。 ただもう一つだけぜひ言ってみたいことは、同じく地形を表示する単語でもやはり必要に応じて次々に生まれて来たので、決して一部の論者の想像するように、大昔からすべて 具 ( そな )わっていたのではないということである。 その一例とも認められるのは、最初地面が豊かで選定の自由であった時代には、人は必ず功程の容易で便益の多い場所を見立ててそこだけに住もうとしたのだが、おいおいに人がつまり、または後から入って来て若干の不利を忍ばねばならぬものは、ぶつぶつ言いながらも二等地・三等地に村をこしらえることになった。 そういう時代になって始めて生まれたらしい地名もずいぶんあるのである。 紀州・大和辺から中国地方にかけて南東に山を控えて日当りのよくない土地をオンジ(陰地)といい、またはヒウラなどという語もある。 普通は杉林などにしておくのだが、他の条件がよいと折々は田にもし畠にもする。 この県ではそういう土地をヒカゲという。 これに対してヒオモ・ヒナタまたはアサヒという処が他の県にもあるから、その地名は本来は外から付けた名であった。 すなわちヒカゲまでも行って耕さなければならぬ時代が、この地名よりも後になって到来したのである。 ソデまたはソンデという語もこれと同様に、山の向う側ということを意味するが、これにもはや少しずつ入って住む者がある。 それが表山にある 邑里 ( ゆうり )よりも後に、たいていはそこから分れて往った者であることは、なんらの言い伝えはなくとも、地名がその歴史を伝えているのである。 アテラという地名がそういう 僻村 ( へきそん )の名になっていることは、かつて自分もその理由を考えてみたことがある。 常陸 ( ひたち )の水戸領の 安寺持方 ( あてらもちかた )は、早く知られたるその一つの例であって、近世になるまで 結縄 ( ゆいなわ )をもって文字に代え、人からは 武陵桃源 ( ぶりょうとうげん )のごとく目せられていた。 行く路が幾分か山坂で遠いというのみで、今往ってみるとそう驚くほどの奥山家でもなさそうである。 東京から西に見える甲相の連山中にあるものを始めとし、木曾にも 恵那 ( えな )にも 阿寺 ( あてら )という小部落はあり、また今度気を付けていたら三河の北部にも二三箇所同名の地があった。 いずれも比較的遅く開けるくらいだから、日当りの十分でない山間には相違ないが、これが地名となって知られているのを見ても、前からの予定開墾地なることは察せられる。 ただその条件が幾分か他よりも悪かったために、後まわしになって、久しく問題にせられていたのである。 アテという語は木工や木材業者にはよく知られ、一本の材木の日を受けぬ側、すなわち成長が悪くて 木理 ( もくり )が伸びず、節立って加工の困難な部分だから嫌われ、ひいては物のよくないのを皆アテといい、醜婦までをアテという隠語さえできているが、語の起りとしては単にこちらからは見えぬ側、遠近のオチなどと同じ語だったようである。 人が最初に入り込んだ場所から見て、他の側面を指す語に過ぎぬのだから、何かの事情によりもし悪い方にまず手を附けてあったら、アテはかえって美地であったかも知れぬのである。 アタゴという地名は京都の北部だけでなく、これから天竜を隔てた遠州の 磐田 ( いわた )郡にも有名なる阿多古がある。 いずれも命名者のいる所と反対の側にあることを意味し、従って京の愛宕山なども、以前の登り口は丹波の方であったということになる。 伊予で有名な 越智 ( おち )氏の根拠地は、最初どこであったか私は知らぬが、現在もこれから土佐へかけて幾つとなくオチという地名がある。 そこにまだ人の住み着かぬ前から、山の向うの人にオチと命名されていたとすると、平地がやや広いとか水があるとか、または特殊の産物を出すとか、何か特徴の話題に上るものがあったと見られるので、三河でオチという地名もやはり同種のものかと思う。 我々の小地名は新旧が交錯しているために、どうかすると全部一度にできたかのごとき感を抱くものを生ずるが、生活上の必要もないものを、 拵 ( こしら )えておく人はなかったろう。 何田という地名は田を開いて後に生じたことは、誰にでも想像せられるが、その田畠や村里の名に、何野・何沼という類の古名が残っているのも、やはり前にいうアテラやオチと同様に、それを開発しようというある年月日の前から、それが問題となって注意する者が多かった結果、いわゆる有名になっていたから踏襲したので、行旅や採取の生活だけならば、こうたくさんの地名は実は要らなかったのである。 諸君の先人等の辛苦計画の名残は、こういう一つ一つの地名の増加して来た跡からもこれを窺うことができる。 小さい事だと軽視してはいけない。 小さい事には相違ないが、これによらなければ片端でも昔の生活は知る 途 ( みち )がないのである。 そうして農民の生活などは、考えてみればどれでも皆小さい。 それを多数の志ある人々が互いに問い究めて背後の大いなるものを、見つけ出そうとしているところなのである。 村々の地名の莫大に豊富で、あるいはこの『地名調』の数十倍もあろうかと思うようなのはたいていは開発占有後に生まれたものである。 土地はその尺寸を歩々に利用する者があって始めて甲乙の区別が日常の会話の上に入用になって来る。 日本の田園は御覧の通りの微細な区劃に分たれていて、しかも前代には番地というものがなかった。 一人がかためて持っていればこそ、上から何枚目というような呼び方もできるが、これが一筆ごとに別の家に属していれば、ぜひともそれぞれの耕地名がなくてはならなかった。 売買譲与の証文には 四至 ( しし )と称して、所在と反別の他に四方の堺にあるものを掲げることになっていたが、これでは平素の用は足りずそのまた隣の地にも何とか名がなければすまなかった。 普通は誰それの田と作り主の名に托し今とても決して何番地などと口ではいっていない。 そうして家々の農業事務としては別にまたそれぞれの呼名があるのである。 字 ( あざ )という小区劃の地名はこの場合に入用になって来るのだが、これとても起りはことごとく地形の特徴により得なかったことは、前にも述べておいた通りである。 命名時代の農村の社会生活は必然にこの新地名の上に反映せざるを得なかった。 この県の地名表を見ても現在の切絵図の字名になお著しくその痕跡を留めている。 いちばん多いのは信仰上の用途に指定せられたる耕地の名である。 これはそういう田畠がたくさんにあったというよりも事柄が重要だから必ず地名となしこれを常人の所属と差別し、またそういう土地が飛び飛びにあったことを意味するだけで、その名の一区が全部これに宛てられたというのではなく、そういう信仰用地が中に含まれている字にその大切な田の名を名乗らせたのである。 実例の二三を拾い上げてみると 団子田 ( だんごだ )という字がそちこちにあった。 めいめいの家で団子を作るのでは地名にならない。 これはある御社または御堂へ例年団子を供える入費を弁ずるためもしくはそこの田の米を使うように予定せられていた公共用地であった。 団子というのは 粢 ( しとぎ )すなわち白餅のことだろうと思う。 二月田・三月田という類の月の名を掲げた字もある。 これも毎年その月に祭典を営む社があってその日の費用を弁ずるために設けられた田の所在である。 それからちょっと説明を要するのはケワイ田、これも全国的に分布しているからわかるのでこの 化粧 ( けわい )というのは大祭の日の舞女を意味する。 化粧は普通の女は 滅多 ( めった )にもしなかったのである。 その化粧すなわち 白粉 ( おしろい )を塗り紅をつける女性の給与のために特に一区の神田があったので、いかに昔は化粧が大切であったかが知れる。 女郎免 ( じょろうめん )・ 傾城 ( けいせい )屋敷などというと人はすぐに 艶 ( なま )めかしい伝説を想像したがるが、これも本来はまた神に仕えて舞う女性の名であった。 尾社田 ( びしゃだ )あるいは毘沙田と書いた字の名も折々ある。 ビシャは正しくいえばブシャすなわち 歩射 ( かちゆみ )で村の社の春祭に 的射 ( まとい )を行い、終って酒食を共にする風は今もまだ残っている。 その日の用米を弁ずるために、番に当った者の耕作する田があったのである。 仏寺・仏堂に対する指定地もいろいろあった。 除地と称して特に租税の全額を免除したものの他に、半分または三分の一を減免して、その分だけを仏に奉るのを免といった。

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ひづめ 日詰 ひとはね 一刎 ひなた 日名田 ひみまち 比美町 ひらさわ 平沢 ふかはら 深原 ふせ 布施 ふれざか 触坂 ぶつしようじ 仏生寺 ほそごえ 細越 ほりた 堀田 ほんまち 本町 ま行 ましま 間島 まるのうち 丸の内 みうち 見内 みお 三尾 みなみおおまち 南大町 みやだ 宮田 もお 万尾 もりでら 森寺 や行 やたべ 矢田部 やないだ 柳田 やのほう 矢方 やぶた 薮田 よかわ 余川 よしいけ 吉池 よしおか 吉岡 よしがけ 吉懸 よしたき 吉滝 ら行 ろんでん 論田 わ行 わき 脇 わきがた 脇方 石黒宗麿 石黒 宗麿(いしぐろ むねまろ、1893年4月14日 — 1968年6月3日)は、富山県射水市(旧新湊市 )久々湊(くぐみなと)出身の陶芸家。 贈従四位。 作品の多くは射水市新湊博物館 に収蔵されている。 1893年(明治26年)射水郡二塚村上伏間江、中越汽船社長・筏井甚造の四女めなの子として出生。 1893年(明治26年)名門の富山中学で不穏行動(ストライキを首謀し、止めにきた教師を殴る)で後、退学。 1918年(大正7年)中国宋の時代の陶器である曜変天目に惹かれ陶芸家を志した。 1936年(昭和11年)に京都市左京区八瀬で窯を開き、多くの作品を残した。 ここが終の住み家となった。 長い年月をかけ、苦労の末に代表作木の葉天目[1]を完成させる。 1955年(昭和30年)2月15日、初の人間国宝(重要無形文化財「鉄釉陶器」保持者)の一人に認定[2]、新湊市名誉市民に推挙。 1963年(昭和38年)紫綬褒章受章。 1968年(昭和43年)勲三等瑞宝章受章。 6月3日、老衰のため死去。 越中三助焼窯元 富山県砺波市の福山丘陵一帯は陶土に恵まれ、古くは奈良・平安時代の須恵器に始まり、生活用具と瓦の製造が行われていました。 この瓦製造の一軒であった谷口三助(嘉永元年~明治38年)とその長男、谷口太七郎(明治7年~昭和8年)が瓦製造の窯で壺、鉢、皿などの生活用具を作り始め、三助焼の基礎を築きました。 小杉焼について 江戸時代後期の文化13(1816 年頃から明治40年頃まで 約90年間、4代に亘って小杉町で焼かれた「小杉焼」を見ることができます。 初代は高畑与右衛門といい、相馬焼(福島県)で陶技を学び帰郷して上野に築窯、さらに黒河箕輪山、そして戸破(竹内源造記念館)付近で主体窯である高畑窯を開いた。 、独自の陶法を完成するまで苦労をしたようだが、形の美しさ、独特の釉の色と艶のある焼き物は、当時の人々に愛され、天保元年に加賀藩から「陶器所」の免許を与えれた。 天保9年(1838)に53歳で没した。 小杉焼 2代与右衛門は、更に研究を深め、藩からの保護を受け、陶窯を整備し販路を拡張して小杉焼の全盛期を迎えたが、文久2年(1862)に伝染病が流行し二代と三代を継ぐはずだった長男のほか一家全員が亡くなるという不幸が襲った。 このため4代は親族の唐津山三十郎が継ぎ、一時は盛んだったが明治20年代に衰え始め、明治41年に三十郎が亡くなるとともに廃窯となった。 小杉焼(鴨徳利) 窯の様式は相馬焼と同じ京焼系の傾斜砂床の有段式地上窯で高火度焼成のため素地は炻器質で硬い、特色は、地方窯に珍しい優美な形態と滑らかな艶を持つ釉色 銅緑釉・黒飴鉄釉・黄白色灰釉)にある。 器種は酒器・茶器・花器・神仏具など多岐にわたり、特に鴨徳利・瓢徳利や茶壷などが知られている。 各代を通じ大半は無名だが「箕輪山」「小杉焼」の釘彫り銘や印銘のある作品が少数あるほか、2代と4代には年号を書き入れた徳利や、神社寺院等、に奉納した瓶子や香炉が残っている。 これを片口窯という。 しかし、戦時の経済困難で昭和20年には休業状態となった。 銘印は、「ひょうたん形内に小杉焼」「横長方形内に小杉焼」「縦長方形内に常山」 「円内に小杉」「こすぎ」のほか算用数字を入れたものがある。 多い時には年間3~5万個生産したという。 これを横堀窯という。 彼は京都で陶工をしていたが昭和初年小杉町に帰り小杉焼風の青緑釉や飴黒釉の酒器、久谷風の茶器などを製造したが、昭和16年応召のため廃窯となった。 戦後は、昭和47年に自宅に築窯し高志焼と称したが成功せぬまま53年に没し廃窯となった。 窯主池上栄一は、金沢美術工芸大学陶磁科を卒業、県立高岡工芸高校で窯業を教授するとともに、中央、地方の著名な陶芸展で入賞を重ね、数多くの美術工芸団体の役員を勤めている。 作風は、小杉焼の伝統に現代感覚を加味し、花器、茶器、置物、壁面装飾など芸域が広い。 金森映井智 1908年(明治41年)2月3日生。 本名は榮一。 高岡工芸学校(現・高岡工芸高校)卒業。 彫金家の内島市平に師事。 象嵌(ぞうがん)技術は、我が国の最高峰のものです。 同時に現代感覚あふれる重厚な作風でも知られています。 1989年(平成元年)に、その卓越した技が認められ、国の重要無形文化財(彫金)保持者に認定されました。 平成2年には「高岡市名誉市民」の称号が贈られています。 2001年(平成13年)11月25日没。 大澤光民 1941年(昭和16年)9月26日生。 本名は幸勝(ゆきまさ)。 富山県立職業補導所卒業。 1969年(昭和44年)大澤美術鋳造所創立。 焼型鋳造の高い技術を持ち、1980年(昭和55年)独自の技法「鋳ぐるみ法」を生み出し、新しい作風をつくりだしました。 日本伝統工芸品展などに出品し、数々の賞を受賞。 2005年(平成17年)、重要無形文化財「鋳金」の保持者に認定されました。 鋳金の人間国宝は史上3人目です。 越中瀬戸焼 越中瀬戸焼(えっちゅうせとやき)は富山県立山町瀬戸地区にて焼かれる陶器。 全国的な磁器産地である瀬戸焼を名乗るが、現在は陶器産地なので注意が必要である(最盛期には磁器、陶器の双方が焼かれていた)。 文禄3年4月に、加賀藩主の前田利長が尾張国瀬戸より陶工、彦右衛門を招いて焼かせたのが始まりといわれる。 藩の御用窯として栄え、越中国随一の磁器産地として名を馳せた。 最盛期には120近くの窯場を数えたという。 そして、尾張の磁器産地「瀬戸」に因み、産地一帯が瀬戸村と名付けられた。 しかし近世に入り幕府の保護がなくなり、衰退した。 加えて鉄道の開通によって瀬戸や有田から安価な陶器が流入したことにより、競争力を失い存続の危機を迎え、大正年間に遂に廃絶の憂き目を見た。 しかし、昭和18年になって地元の有志らの手によって廃窯となっていた窯場を研究、昭和33年に釈永庄二郎が庄楽窯を開窯し、漸く再興に漕ぎ着けた。 2006年現在は庄楽窯、千寿窯など4つの窯場が伝統的な技法を継承している。 越中瀬戸焼の特徴は多彩な釉薬であり、藁灰や木灰を原料とする。 大胆な施釉が特徴で、釉薬を掛け流した後、高温で焼成する。 越中丸山焼(江戸~明治期) 富山平野の南端、飛騨山地へと続く丘陵地帯の中腹に遺跡は所在し、現在は跡地に石碑が建てられています。 越中丸山焼は、越中瀬戸焼・小杉焼とならんで越中近世三大窯の一つに挙げられます。 九谷風の赤絵の製品が有名ですが、作風は瀬戸・清水・伊万里と多岐に渡り、初期は陶器のみの生産でしたが、後に磁器も作るようになりました。 また生活雑器から茶器まで多種多様な製品を作っています。 文政12年(1829)、京都で製陶を学んだ山本甚左衛門が郷里の丸山村で窯を開いたのが始まりで、当初は経営難で苦しみましたが、富山藩からの援助を受け発展しました。 越中丸山焼窯跡 越中丸山焼窯跡 最盛期には前口40間、奥行37間の敷地に工場、13基の窯、50人を数えたといわれる工人の住居など幾棟もの建物が立ち並び、富山湾からも見えたと伝えられます。 技術習得に積極的で九谷・瀬戸などから技術指導者や工人を招き、作風・器種ともに多様化していきました。 しかし安政5年(1858)、安政の大地震で窯が大破し、富山藩からの援助はあったものの次第に衰退していきました。 廃藩置県そして甚左衛門が明治3年に亡くなったあとは、販路縮小・製品の質の劣化が深刻になり、明治27年に廃窯しました。 昭和36年に市の史跡に指定されています。 富山県砺波市出身。 日展評議員、光風会理事、金沢美術工芸大学非常勤講師、日本芸術院会員。 略歴 1935年-富山県砺波市庄川町に生まれる。 1958年-金沢美術工芸大学洋画科卒業。 高光一也に師事。 大学在学中の1952年に日展初入選。 1996年-日展会員となる。 2002年-紺綬褒章受章。 2004年-内閣総理大臣賞受賞。 2008年-日本芸術院賞を受賞し、日本芸術院会員となる。 2009年-中日文化賞受賞。 前田 常作(まえだ じょうさく、1926年7月14日 — 2007年10月13日)は、日本の画家。 略歴 1926年、富山県下新川郡椚山村(現在の入善町)に生まれる。 一度、富山師範学校本科卒業後、武蔵野美術学校に入学する。 1953年、武蔵野美術学校を卒業。 1955年東京のタケミヤ画廊にて初の個展を開催する。 1957年、第1回国際青年美術家展で大賞を受賞する。 翌年奨学金を得てフランスに留学。 1959年第1回パリ、青年美術家展に出品、イタリアでも個展を開く。 1961年、第6回日本国際美術展で東京国立近代美術館賞を受賞する。 1971年、第2回インドトリエンナーレに出品。 1979年から日本の全国各地で巡回個展を開催し、京都市立芸術大学教授に就任。 そして、第11回日本芸術大賞を受賞する。 1983年に武蔵野美術大学教授。 1989年、仏教伝道文化賞を受賞。 1992年、紫綬褒章を受章し、翌年安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。 1995年、富山県入善町名誉町民に選ばれた。 2000年勲三等瑞宝章受章、武蔵野美術大学の理事長に就任。 2002年「マンダラへの道」展開催。 2007年10月13日、心臓病のため死去。 享年81。 武蔵野美術大学名誉教授であった。 作品集 『マンダラの光・前田常作画集』 『心のデッサン』 『前田常作のアクリル画』 『曼陀羅への旅立ち』 『マンダラの旅 — 前田常作対話集 法蔵選書』 など多数 吉野 美奈子(よしの みなこ、11月1日 — )は、日本の彫刻家・画家 ・作家。 ニューヨークを拠点に活動している。 富山県富山市出身。 大理石等、石を素材としたパブリックアート・彫刻と、独特のテクスチャーで螺旋を描く碧い油彩画が特徴である。 エッセイ等の執筆、着物のデザイン等も行う。 制作テーマは一貫して「大いなる愛、宇宙的生命のつながり」。 来歴 武蔵野美術大学で油絵とグラフィックデザインを学ぶ。 2001年、単身渡米。 美術解剖学を学ぶ目的で通い始めたアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで、後に師となる巨匠・斎藤誠治と出逢う。 斎藤の勧めにより、吉野は2002年から石彫刻を始め、以降12年間、斎藤に師事する。 初めて彫った大理石作品のトルソーが2003年の学生展で彫刻科優秀賞を受賞、美術コレクターに買い上げられる。 また、このトルソーを含む処女作三点シリーズでメリット奨学金を受ける。 2004年、アメリカ同時多発テロ事件を間近で体験した吉野は、その追悼碑を含む「平和のためのシリーズ」を制作し、米国最古の彫刻協会ナショナル・スカルプチャー・ソサエティーより新人賞を受賞。 同年9月、911テロ以降初めてマンハッタンに建築された高層ビル ハースト・タワーのランドマークに指定されている12体の彫像 各3メートル高 修復プロジェクトを一人で完成させ、ニューヨーク・タイムズで報じられる。 2008年、世界の環境破壊に警告を鳴らす純白の大理石彫刻三部作「地球のためのシリーズ」により、1930年から続くエドワード・マクドーウェル欧州留学賞を受賞、翌年イタリア・フィレンツェへ留学。 同年12月、鎮魂と復興を願い大理石彫刻三部作「祈りのシリーズ」を完成。 二周年の2013年3月11日、在ニューヨーク日本国総領事館にて個展「祈り」を開催。 国籍、人種や宗教を超えて、世界の人々とともに祈りを捧げる。 2012年9月より、母校アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークの彫刻科で助教を務める。 2014年6月、ニューヨーク市とアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークの共同事業による野外彫刻コンペティションで選抜され、マンハッタン・リバーサイドパークに、日本神話の「イザナギ• イザナミ」を題材としたモニュメント「Lovers — 恋人たち」 3メートル45センチ高 を設置する。 日本では、週刊金曜日「建国神話を考える」特集の表紙を飾る。 2014年12月、ハドソン川対岸のNJ州に開発中であるハドソンハーバー・コミュニティ(エッジウォーター)のため、2メートルの「眠る人魚像」を完成させる。 素材に選ばれた15トンのブルーストーンはアメリカ東海岸の特産であるが、その石の特徴から大掛かりな彫刻素材としての起用は世界初の試みであった。 現在、この規模の芸術作品としては、世界で唯一のブルーストーン彫刻である。。 2015年4月、「眠る人魚像」はハドソンハーバー・コミュニティ内に永久設置され、また同年5月には、マンハッタン・リバーサイドパークに展示されていたモニュメント「Lovers — 恋人たち」も、隣接するピアに移設された。 2015年11月、マンハッタン・ファッション地区にあるネペンテス・ニューヨークで、初のソフト・スカルプチュア展を開催。 作品の素材にはすべてメンズブランド「エンジニアド ガーメンツ」の生地を使用した。 2016年5月、18トンのブルーストーンから、ニューヨーク州のシンボルフィッシュであるチョウザメをモデルとした、古代魚モニュメント「ハドソン川の主」(全長4メートル)を彫り上げ、ニューヨーク州テリータウンに設置される。 その制作風景は読売テレビの「グッと! 地球便」で紹介された。 著書 吉野美奈子 「夢追人」Kindle eBooks 2013年11月1日 ラジオ ミュージアム・ブレイク(富山シティエフエム 2002年6月 — 2003年5月)ニューヨーク発信でアートを語るパーソナリティを務めた。 時代に制約されない普遍的な内容で再放送や他局ネットにも広がった。 大平 山濤(おおひら さんとう、1916年6月30日 — 2007年9月9日)は、日本の書家、文化功労者。 本名、正信。 富山県下新川郡朝日町生まれ。 富山県師範学校卒業、富山県立魚津高等学校に勤務。 1947年金子鷗亭に師事する。 1968年教員を辞職して上京、抱山社を創設する。 1991年毎日書道展文部大臣賞、1992年毎日芸術賞受賞。 2002年文化功労者。 日展参与、日本詩文書作家協会最高顧問を務めた。 魚津市の新川文化ホールには「山濤記念室」があり、作品の一部が展示されている。 森 大衛(もり だいえい、本名:森行弘、1965年 — )は、日本の書家。 富山県富山市出身。 富山県立富山商業高等学校卒業。 財団法人独立書人団会員、鵬翼会・つばさ子供習字代表。 経歴 1979年に北日本新聞社が主催する書き初めコンクールで金賞を受賞するなど、幼い頃より書家としての頭角を現す。 2003年 — フジテレビ系列『笑っていいとも! 』内コーナー「目指せ! 達筆王」にて指南役を担当し、作務衣に無精髭という独特の風貌もあいまって一躍脚光を浴びる。 続いて『笑っていいとも! 増刊号』内コーナー「続! 達筆王」にも出演する。 2005年 — 独立書展(東京都美術館)…『瀧』出品(海外紹介作品10点に選抜) 2006年 — 壮麗な絵天井で知られる奈良県・當麻寺中之坊へ、人間国宝・文化勲章受章作家の絵画作品群に、唯一「書」を献納。 2007年 — 11月、渋谷にて東京オフィスおよび書道教室を開設。 石黒 宗麿(いしぐろ むねまろ、1893年4月14日 — 1968年6月3日)は、富山県射水市(旧新湊市 )久々湊(くぐみなと)出身の陶芸家。 贈従四位。 作品の多くは射水市新湊博物館 に収蔵されている。 1893年(明治26年)射水郡二塚村上伏間江、中越汽船社長・筏井甚造の四女めなの子として出生。 1893年(明治26年)名門の富山中学で不穏行動(ストライキを首謀し、止めにきた教師を殴る)で後、退学。 1918年(大正7年)中国宋の時代の陶器である曜変天目に惹かれ陶芸家を志した。 1936年(昭和11年)に京都市左京区八瀬で窯を開き、多くの作品を残した。 ここが終の住み家となった。 長い年月をかけ、苦労の末に代表作木の葉天目[1]を完成させる。 1955年(昭和30年)2月15日、初の人間国宝(重要無形文化財「鉄釉陶器」保持者)の一人に認定[2]、新湊市名誉市民に推挙。 1963年(昭和38年)紫綬褒章受章。 1968年(昭和43年)勲三等瑞宝章受章。 6月3日、老衰のため死去。 参考文献 小野公久『評伝 石黒宗麿 異端に徹す』(淡交社 2014年) 山崎 覚太郎(やまざき かくたろう、1899年6月29日 — 1984年3月1日)は、漆芸家。 富山県出身。 略歴 1924年東京美術学校漆工科卒。 1925年パリ万国博覧会で金賞。 1928年東京美術学校助教授、のち東京芸術大学教授。 1939年文展審査員、1946年日展審査員、1950年日展運営会参事、1957年常任理事。 1954年日本芸術院賞受賞。 帝展特選受賞。 1957年日本芸術院会員。 1958年日展常務理事、1969年理事長、1974年会長、1978年顧問。 1961年現代工芸美術家協会を設立、委員長となる。 1965年会長。 1966年文化功労者。 1970年勲二等瑞宝章受章。 1977年勲二等旭日重光章受章。 1984年3月1日、東京都杉並区内の病院にて心不全により死去。 業績 多彩な色漆を使った簡潔で軽妙な図案と斬新な構図で蒔絵にこだわらない絵画的表現を確立。 漆芸を実用の概念から解放し、現代的表現の可能性を追求した。 松原定吉 まつばら-さだきち 1893-1955 大正-昭和時代の染色家。 明治26年2月24日生まれ。 東京日本橋の九里正三郎,のち亀戸の竹中竹次のもとで長板中形の型付けを修業。 大正4年独立し,型付けから染めの一貫作業をおこなう。 昭和29年本藍染めによる長板中形をはじめる。 30年人間国宝。 昭和30年12月30日死去。 62歳。 富山県出身。 作品に「長板中形浴衣 ゆかた ・変り縞」。 一位一刀彫り 飛騨春慶塗 オークビレッジ 和ろうそく 高岡漆器 山中和紙 止利仏師 ガラス工房 八尾和紙 高岡銅器 城端塗 五箇山和紙 挽物木地 木彫り欄間 上の富山出身の人間国宝作家、地元の焼き物などがありましたら是非ご連絡ください!!.

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一文字の苗字でかっこいいと思う名前はないでしょうか?ペンネ...

椚みなと 本名

Contents• スポンサーリンク 9bic キュービック とは?? YouTuberやモデルとして活躍している Yapp! やっぴ さんこいち と 米村海斗 よねむらかいと (ヘンジンマジメ)が プロデュースしている 6人組の メンズアイドルグループです。 メンバー全員イケメンだけど、可愛くて性格が良さそうで癒されます。 自分たちが好きなもの全部詰め込んだので是非みんな応援してください!!! とツイートしています。 プロデューサー米村は、 自慢の子達、息子達、イケメンばっかり などといって可愛がっています。 事務所:株式会社WAIWAI ライブのチケットの販売元はレキシントンです。 9bicをプロデュースしているYapp! やっぴ は以前レキシントンに所属していましたが、現在事務所に所属しておらず、 米村はGROVEに所属しています。 ハコイリムスコとは?? 9bicのYouTubeチャンネル名です。 ハコイリムスコ(ハコムス) 「5人組メンズアイドルYouTuber」ということです。 さすがです。 投稿頻度は不定期ということです。 (いつもおかまキャラなので。。。 笑 ) 市川 慶一郎 青 市川慶一郎(いちかわ けいいちろう) ニックネーム:けいくん メンバーカラー:青 誕生日:1996. 8 年齢:23歳(最年長!!) 2019. 31現在 身長:177cm(9bicの中で一番高身長) 体重:58kg 血液型:B型 出身地:横浜 趣味:散歩 特技:テニス 好きな食べ物:ラーメン やっぴと米村のコメント:ツンデレ、知れば知るほどぞっこんタイプ やっぴと米村とは同い年で、長年の付き合いだそうです。 「市川」と呼ばれていました。 グループの中で最年長(ほかのメンバーは17,18,19歳、慶一郎くんは22歳)ということもあり、リーダーっぽい頼れるお兄さんみたいな感じがしました。 (やっぴ) 人気グループYouTuber、 さんこいちのメンバー。 さんこいちのメンバーは、 ほりえりく、 古川優香、 やっぴの3人。 本名:仮屋瀬 翔 かりやせ しょう 生年月日:1996. 16 年齢:22歳 2019. 3現在 身長:167cm 米村海斗(よねむらかいと) 同じく人気グループYouTuber、 ヘンジンマジメのメンバー。 ヘンジンマジメは、 米村、 ぎんしゃむ、 みぽたぽた、 保田淑希(よしくん)の4人で活動していたが、よしくんが2019年の3月に結婚を機にYouTubeやSNS活動を引退したため、現在は 3人で活動している。 生年月日:1997. 1 年齢:22歳 2019. 3現在 身長:175cm スポンサーリンク デビューライブ 2019. 01(土) 開場日時:12:00 開演日時:13:00 開場:東京都 原宿ベルエポック美容専門学校第二校舎.

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