キハ 22。 弘南鉄道黒石線 キハ22形(キハ2200形)、キハ2100形+下北交通開業記乗

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キハ 22

昨日に続き、北海道の気動車シリーズですが、今回は急行型が登場する以前から各停・準急などの運用に活躍していた一般形気動車です。 バス窓スタイルなのでキハ12形かと思いましたが、番号が59と書かれているのでキハ22形の初期タイプかと思います。 国鉄の量産形気動車としては初めて液体式変速機を実用化し、複数車両の総括制御を容易としたことで、日本におけるその後の気動車普及の途を開いた極めて重要な系列として位置づけられています。 車体は鋼板および鋼板プレス材により構成された軽量構造であり、車体重量を可能な限り軽量化するために車体断面を小さく設計されており、当時の電車や客車に比べても車体幅が小さく2,600mmとなっています。 設計全般には、当時の車両火災などへの考慮から、難燃・不燃材料などが多く取り入れられています。 外観の最大の特徴は、正面貫通式運転台を採用したことです。 運用にフレキシビリティを持たせるためで、以後の国鉄気動車は特急形も含めほとんどがこれを踏襲し、結果1両単位での自由な増解結が可能となり、車両運用上多大な利便性を有することになりました。 側面形状は車体両端にステップ付の客用ドアを配置し、客室側窓は1953年製のキハ44000形2次車と同様、上段をHゴム支持固定、下段を上昇式とした、いわゆる「バス窓」です。 窓下には補強帯(ウインドウ・シル)を備えた古い形態を残します。 車体中央部壁の面に排気管を立ち上げる屋上排気方式を標準としました。 変速機は後にDF115も用いられました。 エンジンと変速機は車体床下に吊り下げられた機関台枠に搭載されており、ここから取り出された動力は、プロペラシャフト(ユニバーサルジョイント)、ギアボックスと一体化の上で台車のトランサム(横梁)に2本の平行リンクで結合して支持される、ベベルギアと平ギアによる逆転機、およびこれと一体化された平ギアによる最終減速機を経て、台車の車体中央寄り1軸を駆動する構造でした。 キハ17形(キハ45000形) キハ17形は、便所付き片運転台車で、 1953年から1957年にかけて402両が製造された本系列の基幹形式であり、日本初の本格的量産型液体式気動車でした。 初期車は全座席がボックス式クロスシートでしたが、 1954年製の206以降は、乗客の乗降の円滑化を図るため、客用扉付近のクロスシートがロングシートに変更されるとともに、シートの背ずりが高く改良されました。 また、 1956年製の321 - については、車体強度の向上が図られた関係で、トイレの窓がHゴムによる固定式となり、トイレおよび水タンク室の補強帯(シル・ヘッダー)が省略され、客室幅が12mm広げられました。 客室の拡幅に関する設計変更は、同時期に製造されていた他形式でも行われています。 形式間改造については、11両がキユニ17形に、5両がキニ17形に改造されました。 老朽廃車については 1973年から始まり、 1981年までに全車が除籍されました。 キハ16形(キハ45500形) キハ16形は、便所なし片運転台車で、 1954年から翌年にかけて99両が製造されました。 日本各地に配置・運用されました。 車内は全車がキハ17 206 - と同様の、客用扉付近にロングシートを配した背ずりの高いタイプとなっています。 定員は106名(座席82人、立席24人)です。 形式間改造については、8両がキハユニ18形に改造され、そのうち6両がキユニ18形に再改造されています。 廃車は 1974年から始まり、 1980年までに全車が除籍されました。 キハ12形(キハ48200形) キハ12形は、酷寒地向けの便所付き両運転台車で、 1956年に22両が製造され、全車が北海道内で使用されました。 キハ11形100番台との相違は、側窓が二重構造となったことです。 当初は、デッキ部の仕切り壁は設置されませんでしたが、後年の改造により設置されました。 定員は、基本的な車体構造が同じキハ11形と同一です。 老朽廃車は 1976年から始まり、 1980年までに全車が除籍されました。 形式間改造車および譲渡車は存在しません。 それは当時のDMH17形エンジンでは車体サイズを小さくしたり、乗り心地を犠牲にした軽量化に務めても出力が足りなかったからです。 こうして、10系客車の設計ノウハウを有効活用する形で、翌 1956年に大断面車体を備える20m級気動車の第1陣として、準急形気動車である キハ55形(当時は キハ44800形)が製造され、ここに初めて電車・客車と同等の車体(車内設備)を備える気動車が実現しました。 その後、キハ55形の成功を受ける形で、普通列車に用いる一般形気動車についても大型車体へ移行することが決定され、同形式に準じた設計で新たに開発されたのが キハ20系です。 製造会社はキハ21形の帝車と新潟に加え、富士重工業と日本車輌製造が加わっています。 乗降口を車体両端へ配置して、客室との仕切り扉を備えたデッキ付きとし、側窓を小型の一段上昇式二重窓として保温性を高めています。 暖房装置はエンジン冷却水利用の温水暖房として強化し、かつ放熱フィンを大型化して効率を良くしました。 床は雪が融けて濡れた時の滑りにくさや、雪靴・雪下駄の滑り止め金具(スパイクなど)への対策から木張りとされ、さらに断熱材の厚さを増したため、暖地向けの標準車に比べ、レール面基準で50mm高くなりました。 そのため、客室窓、乗務員用扉、運転台窓、貫通路扉(幌枠高さは標準車と同じ)、尾灯の位置もキハユニ25 7を除くキハ20系他車よりも高くなりました。 また、警笛は前照灯脇から、温水管の取り回しが楽な乗務員室床上(助手席足元)に変更されました。 室内色も暖色系の薄茶色4号とされ、車端部がロングシートであること、窓側に肘掛けがないことを除けば、準急形の キハ55系に遜色ない水準であり、急行列車にも用いられました。 1960年代から1970年代に北海道のローカル列車の多くは本形式が投入されていました。 また、循環急行「 いぶり」、函館本線の「 らいでん」、「 せたな」や羽幌線の「 はぼろ」など道内のローカル急行にも数多く使用され、これらは「遜色急行」として鉄道ファンに注目されたそうです。

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国鉄 キハ22形 一般色 前期/後期

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02 本稿作成に鉄道ピクトリアルNo. 862服部朗宏様の弘南鉄道記事 部分 を参照させて頂きました。 弘南鉄道が引き受けるにあたって弘南黒石駅にSカーブで線路を敷設し、同一駅とし、3,4番線ホームを新設した。 1984 S59 11月1日弘南鉄道として3路線目が開業した。 当初は譲受したキハ22を使用、1995年小坂鉄道からキハ2100形2両を譲受して、キハ2230を予備車に3両態勢 で運行。 キハ2100形が停車している側の4番線を通常使用ホーム、3番線は代走の予備車を留置していた。 3番線は架線が貼られ、電車、電気機関車も入れるようになっていた。 この他、開業にあたり黒石駅弘前方に検修庫、給油設備が設けられ、内燃動力車免許所持の乗務員を確保した。 電化引き受けで無かったために、新たな内燃コスト増を招いた。 弘南鉄道の形式はキハ2200形とされ、元キハ22-128は2210、22-130は2220に22-143は2230に改番された。 塗色は弘南色になったが、車体が大きいため黒石駅では南海グリーンよりも目立って威容?感が漂っていた。 検修費用のかかるATS装置は行き違いや2列車運行をしないことで撤去、トイレは短区間で必要性が無いため閉鎖した。 1987 S62 にワンマン化工事実施の際、トイレ及びデッキ仕切りを撤去、座席を延伸した。 3両とも1962 S37 新潟鐵工所製、入線にあたっての改造は秋田の土崎工場で行われた。 廃車は1995 H7 年に2210、2220の2両が、小坂鉄道より2100形入線により、廃車された。 1998 H10 黒石線廃止時に残る2230が廃車された。 Google社の自動広告を導入中です。 これらの広告はパソコンシステムのトラブルになる可能性のある広告です。 広告による問題発生は当店は責任を負えませんので、ご注意をお願いいたします。 画像処理最大手Adobe社はダウンロード時のインストール項目を注意して外さないと、googleの閲覧ソフトに入れ替わる場合があります。 念のため 苦笑 前田屋敷停留場 待合室は極寒強風対策のドア付。 ホームは2200形導入により、長さ1両分がかさ上げされた程度 川部駅も同様 田んぼとリンゴ畑の真ん中で周辺の人家はまばらで、朝夕以外の乗降客はいたのかと思えるほどのロケーション? 黒石からこの線を利用する人は青森方面か五所川原方面以外にはいなかったのではなかろうか 当時の樽沢社長は黒石線を電化して循環線構想までぶち上げていた。 弘南鉄道の経営者にとっては 1955 昭和30年代 ~1965 40年代前半 はそれだけ収益が有ると考えられた時代があった。 弘前電気鉄道も経営難で樽沢社長に救済合併をしてもらっていた。 運転士さんによると小坂鉄道からやってきたキハ2100形は冬期間、吹き荒れる津軽平野の風に立ち向かう力が弱く、到着 定時と行かないことが多かったそうな。 キハ22 と言っていた の方が安定した走行が出来たそうで、本当はキハ22形の方が良いのだが、燃費がかかるから会社に 嫌われてこれ(キハ2200)になったようだ。 とのお話を聞いた。 あまりの寒さに風よけの場所も無く早々に退散した。 31限りで廃止された。 約13年後のことであった。 当初の電化循環線構想 樽沢私案? とは違った非電化路線のため、設備投資 車庫や機材 や人材も電車、 内燃車の2種になって効率も悪く、黒石と国鉄川部駅で乗換する旅客の便宜を図る専用線?でなんら 地域の発展地図が無い中で、乗客が増加するわけも無く、時の地元も「弘南のトップのトップに頼めば 何とかなる」で転換存続したのだろう。 当初の数年間は補助金なども出たが、当初から焼け石にリンゴ 米 ?であった。 設備も更新する時期になって、この乗客数では・・。 と 1992年「黒石 線 活性化推進協議会 」が設置され、 地元協議を重ねて廃止に踏み切った。 「活性化推進協議会」が設置されてから6年後であった。 そういえば 「存続戦略協議会」 という名を思い出した・・・。 1984. 2に社名変更 下北バスが大畑線を引き受けたのは、南部縦貫鉄道が将来、東北新幹線の七戸駅設置を前提に大畑線を引き受ける 事業拡大構想を察知。 下北半島の交通網を自社でまかないたいことから、バス専業の会社が鉄道事業を開始する異例の展開となった。 未知の鉄道事業にどう対処するか思案の結果、中古バスで取引のあった京浜急行電鉄に支援を要請、社名も変更した。 開業にあたっての公官庁 仙台 との業務や鉄道関係のノウハウを京浜急行から全面的に受けて開業した。 京急では担当者が現地に仮住まい?をしたり、関係者が新幹線で仙台 監督官庁 あるいは、羽田から青森・三沢空港経由で 下北へ打ち合わせに往復、開業に向けて尽力されていた。 車両は1985年 S60 7. 1に開業することから、譲受したキハ22の形式をキハ85に変更した。 開業後1993年以降には利用者がさらに漸減し、鉄道全体の老朽化もあって、約16年後の2001年4月に廃止された。 その後、京急との縁は排ガス規制問題などから新造バス導入に時代が変わって希薄化した。 発注元はデザインの時点で「鉄」のこと、なんも知らんらったらしく 車両形式で無く機関形式を記載し、ダイヤは途中切れありの大慌て作成らしき「珍品」記乗 大畑出庫の列番が「0D」という珍番号の列車がある。 普通は偶数番号の最初は2Dとかに なるのだろうが、出庫から走行する列車の順番を分かり易くしたのかも。 ナゾ~。 但し、秒時刻は長閑な運転なので?必要が無いらしく記載が無い。 04 フィルムスキャン&プリントのS All rights Reserved.

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キハ22

キハ 22

湘南タイプの前面が特徴だが、うち4輌(1・4・11・16)が貫通型に改造された。 写真のキハユニ15 7はキハ09 7を1958(昭和33)年に小倉工場で改造したもので、配置区は厚狭機関区。 1975(昭和50)年に廃車となっている。 山陰本線 仙崎 '74. 18 P:中川一郎 1973年キハ27形を改造した北海道初の座敷車キロ29形が、国鉄初の和式気動車として誕生した。 主な改造は座敷構造への変更のみで、キロ29 1~3の3輌が旭川・苗穂・五稜郭の各工場で施工され、「くつろぎ 」の愛称で団体専用列車や定期急行列車に増結され運行された。 さらに1984年、キハ56形を改造した座敷車キロ59 1~2の2輌が苗穂工場で改造され登場した。 この時、クリーム1号の地に赤2号の模様を入れた塗装に変更し、キロ29形も同色に塗り替えられた。 また、各車に北海道の湖にちなんだ愛称(キロ59 1:大沼、 キロ59 2:洞爺、 キロ29 1:支笏、 キロ29 2:摩周、 キロ29 3:サロマ)が付けられた。 国鉄分割民営化後も全車が引き継がれ、もえぎ色を使用した塗装に変更され活躍したが、老朽化により1997年までに全車廃車された。 '87. 1 苗穂 P:佐々木裕治 北海道内の特急列車には80系気動車が使用されてきたが、昭和50年(1975年)頃になると車輌故障の多発や接客設備の陳腐化が進んだため後継車輌の開発が進められ、1979年9月183系試作車(900番代)12両が函館運転所に配置された。 各種試験の後、翌年2月から函館~釧路間の特急「おおぞら5・4号」に10輌1編成を隔日で使用する形態で運用を開始した。 試験結果を反映し1981年に量産車が登場し、10月のダイヤ改正から使用された。 試作車は量産車とともに使用されていたが、老朽化や余剰を理由に2001年9月までに廃車された。 '80. 3 函館本線 奈井江付近 P:佐々木裕治 キハ141・142は、札沼線(学園都市線)の輸送力増強用として、JR北海道が函館本線の電車化で余剰になったオハフ51形を改造して製作された。 塗装は灰色の地色にコーポレートカラーのもえぎ色を配し、客車から改造された気動車のためPDCと呼ばれている。 キハ141とキハ142は同一番号の車両を連結し、キハ141は札幌方、キハ142は石狩当別方を向いていた。 キハ142-1はオハフ5145を、キハ141-1はオハフ5144を1990年2月JR釧路工場で改造された試作車で、1992年8月JR苗穂工場で量産化改造が実施された。 キハ141系は、その後キハ143・キサハ144の形式が加わり総数44両となった。 キハ142-1は老朽化のためキハ141-1とともに2005年3月廃車された。 '91. 10 苗穂運転所 P: 佐々木裕治 フラノエクスプレスは、国鉄北海道総局が富良野プリンスホテルとタイアップして製作したジョイフルとレインで、1986年12月から札幌と富良野を結ぶ団体専用列車として運行を開始した。 車両はキハ80系からの改造車で、キハ84 1+キハ83 1+キハ84 2の3輌からなり、中間車はハイデッカー仕様、先頭車には展望室が設けられた。 翌年ラウンジカーキハ80 501が増結され、またこの年の夏には全日空とタイアップして正面の愛称表示をANAに変更、塗色も全日空の航空機と同じ色に変更し、全日空ツアー乗客向けの「ビッグスニーカートレイン」として運行された。 さらに1990年1月には、キハ184 11を同色に塗色して編成に組み込み、その冬は5輌編成として需要増に対応した。 その後もリゾート列車として運用されていたが、1998年に運用を離脱、2004年9月廃車された。 2016年4月現在、先頭車1輌が苗穂工場に留置されている。 '90. 4 函館本線 苗穂-白石 P:佐々木裕治 キハ22は、耐寒仕様で設計された酷寒地向けの気動車で、1958年から313輌製造され北海道および東北地区の一部に投入された。 JR北海道に引き継がれたキハ22のうち6輌は、1990年ワンマン化改造され、白地に青の細帯とJR北海道のコーポレートカラーのもえぎ色の帯を巻いた新塗装とされ、車番は701~706とされた。 キハ22 701は、1965年帝国車輌工業で製作され旭川運転所に配置されていたキハ22 321を苗穂工場でワンマン化改造したもので、側面にUZURAのマークが付けられて苫小牧運出所に配置され、函館本線上砂川支線で使用された。 なお、これが北海道で初めてのワンマン運転であったが、老朽化のためキハ40に置き換えられ1993年に廃車された。 '90. 3 苫小牧 P:佐々木裕治 581系583系に準じた前面貫通型のクハ481-200番代は63輌製造された。 ボンネット型クハ481に対し定員は8名増の64名である。 写真のクハ481-246は1973年8月新製、向日町運転所に配備された。 1975年3月南福岡電車区に転属、その後JR九州所属となり前面貫通扉は埋められた。 1990年1月「赤いかもめ」となり注目を集めるが、1995年4月に鹿児島運転所へ転属し「緑のきりしま」となり、2000年3月にはカラフルな「きりしま&ひゅうが」となり、2006年3月に大分車両センターに転属した。 2011年3月、九州新幹線全通により日豊本線に転じた787系にその任を譲り鹿児島総合車両所で保留車となった。 その後2013年1月に廃車された。 '09. 2 日豊本線 大分 P:楢井勝行 キハ82初期車であり当初はAU12キノコ型クーラー4基で登場、後に運転台寄りに1基増設するが半切りのクーラーキセが特徴であった。 1961年8月向日町運転所に新製配備され関西発の長距離特急で活躍する。 1967年10月鹿児島運転所に転属し「有明」で運用された。 1968年10月から「にちりん」、1974年4月から「おおよど」、と運転範囲を広げる。 しかし電化の進展により徐々に活躍の場が狭まり1980年10月、「おおよど」廃止及び共通運用で僅か1往復気動車で残っていた「にちりん」の電車化で運用を失う。 そして名古屋機関区に転属、「ひだ」「南紀」に活躍の場を移す。 しかしそのわずか1年9か月後の1982年7月、向日町運転所から大量に転属してきたキハ82後期車に置換えられ廃車となった。 '81. 3 紀勢本線 佐奈-栃原 P:楢井勝行 非電化の山岳幹線にも特急を走らせるため、DML30系500PSエンジンを搭載した大出力特急気動車キハ181系が1968年~1972年に158輌が製造された。 「つばさ」「しなの」「やくも」などの本州山岳幹線特急、四国初の特急「しおかぜ」「南風」に投入された。 相次ぐ山岳幹線の電化により山陰特急などに活躍の場を移し短編成化が進められた。 国鉄分割民営化時、JR西日本に94輌、JR四国に44輌引き継がれた。 JR化以降、高性能な振り子式特急気動車や使用線区の電化によりその数を減らし、JR四国からは1993年に撤退、JR西日本でも2010年11月「はまかぜ」2010年12月「かにカニはまかぜ」が最後の使用列車となった。 グレーのJR西日本カラーを纏い短編成で走る「はまかぜ」に対し、7輌編成の「かにカニはまかぜ」は国鉄色ではないが、堂々とした特急の風格を漂わせていた。 '09. 18 山陰本線 豊岡 P:楢井勝行 キハ58-563は1964年10月宮原機関区に新製配備、向日町経て広島に移った。 キハ28-2329はキハ28-329として1964年2月広島機関区に新製配備、1969年5月冷房用電源を装備し車番が2329となった。 両車とも白い専用塗装とバケットシート風固定クロスシートにグレードアップされ急行「みよし」で運用されていた。 急行「みよし」廃止後、2007年10月国鉄急行色に復元され岡山に転属、臨時列車等で活躍した。 2010年11月に引退、その後は旧津山蒸気機関車庫にて保存されている。 写真は臨時快速「あまるべマリン号」に充当された両車を撮ったものである。 旧餘部橋梁が描かれた大型ヘッドマークを装着していた。 この列車に乗車しDMH17Hサウンドを聞きながら山陰海岸の風光明媚な車窓を楽しんだ。 '08. 13 山陰本線 城崎 P:楢井勝行 1960年から1963年にかけて気動車の不足から生まれた客車改造の気動車キハ40形とキハ45形。 オハ61改造の両運転台のものがキハ40で、オハフ62改造の片運転台のものがキハ45である。 さらにオハフ61改造のエンジンなしの制御車キクハ45形、オハ62改造のエンジンなしの中間車キサハ45形が登場する。 キハ40=3輌、キハ45=5輌、キクハ45形=3輌、キサハ45=3輌の総勢14輌は徳島に配置されたキクハ45以外はすべて北海道だった。 写真のキハ45 2はオハフ62 6を種車としており、台車がDT22AとTR23改をはいている。 写真は野幌で撮影したもので、夕張鉄道からの乗り換え客をのせて札幌に向かうのだろう。 1966年の改番でキハ40はキハ08に、キハ45はキハ09になった。 キクハ・キサハは改番以前に廃車となっている。 '65. 7 函館本線 野幌 P:飯田 勝 1966年日車にて新製、長ナノ配置。 72年名ミオへ転属し86年名ナコへ再異動。 数多あるキハ58の中でも、意外と記録写真に残っていない車輌です。 なぜなら廃車までに2回改番されているから。 前位デッキ上の押込型通風器で気付く人も多いと思いますが、89年に「かすが」用に0系新幹線発生品の座席を取り付け、東海色に塗色変更のうえ5714番となっています。 「みえ」用のカミンズエンジン改造車が5000番台で登場すると、91年に重複を避け3001番へ再度改番。 この車はDMH17HエンジンとDT22台車のまま2001年廃車となりました。 また、撮影時は亀の子タイプのAU13冷房装置であったが、後年小判形AU13に交換されました。 '75年頃 名古屋 P:新美伸広 前方のキハ28-2380は1964年12月に新製、水戸に配備された。 その後、真岡、山形、新庄を経て1993年12月小牛田運輸区に転属となった。 屋根上に常磐線列車防護無線を装備していたためクーラーの間隔が一部偏っている。 後方のキハ28-2318は1963年9月に新製、和歌山に配備された。 1980年10月水戸に移籍、その後、真岡、山形、新庄を経て1993年12月小牛田運輸区に転属となった。 両車とも1991年「月山」用にアコモ改造(側面行先表示の取付、リクライニングシート化)されている。 小牛田に転属後は主に快速「南三陸」指定席車として運用された。 2007年6月キハ110系に置き換えられ保留車となり2009年1月廃車となった。 '08. 14 東北本線 小牛田運輸区 P:楢井勝行 それまでは旅客車からの改造車でまかなってきた荷物・郵便気動車だったが、1958年にキハユニ25形式と共に登場した「新造の郵便荷物合造車」である。 運転室・荷物室(荷重3t)・郵便室(荷重2t)・客室(座席数40)の構成で、客室設備・側窓・走り装置は、この時期に製造されていたキハ20-201~と同様であるが便所はなかった。 前期型41輌と後期型28輌に大別され、後期形では客室設備・走り装置がキハ20-501~に歩調を合わせて改善されたが外観上の差異は少ない。 大多数が九州地区と東北地区に配属され、写真撮影の年には全数在籍していたが郵便・小荷物扱いの縮小・廃止により漸次減少し、-19号車は1986年3月に廃車された。 残存車輌も1987年の郵便扱い廃止により廃車、消滅した。 '77. 4 会津線 会津滝の原 P:長谷川武利 '62~'66年に掛け、新潟地区の非電化区間における通期輸送改善を目的に、増備中の一般型に加え、耐寒耐雪設備(床下スノープラウ・前面窓に熱線式デフロスタ等)を装備して31輌が登場。 車内・外観上で一般型との差異は無いが、屋上通風器形状が、煙突型(グローブ型)から箱型の押込み式に変更となった点。 主に、越後・弥彦線系統で使用されるも、'84年に各線が電化の上、115系電車と置換わり、一部が余剰・老朽廃車となったほかは、首都圏の一般型が活躍する各線区へ転配となり、これらとの混運用となった。 JR化後も継続使用されるも、その後の各線の事情(電化等)に加え、車輌の老朽化も相まって置換えが始まり、'97年までに全廃、番代消滅となった。 写真の-522は'66年の富士重製。 '84年に木更津区へ転配、'88年に高崎区へ。 '96年の八高南線電化およびキハ110系列車輌への置換えまで活躍。 '89. 「トロッコ列車」は大分~由布院間を1日1往復。 「トロQ列車」は由布院~南由布間を1日に何度か行き来するものでした。 編成は一つでしたが、ほとんど毎日運転されていました。 7年間走り、2009年11月29日に老朽化のため引退しました。 その後キハ58・65形は九州小倉工場にて国鉄急行色にされ、「復活!!急行列車」として走り、トラは大分車両センターで留置されました。 尚、この塗装になる前からも「トロッコ列車」として運転されていました。 '09. 19 久大本線 古国府-大分 P:賀来正博 1986年(昭和61年)、片運転台のキハ56に廃車になったキハ27・56から切断した運転台を接合し、両運転台化改造して501~510の10輌が誕生した。 北海道には強力型気動車がなく、地方路線では1輌で充分な乗客の路線でも冗長性確保の観点から、低出力1動力1軸駆動のキハ22・40等を2輌編成以上で運転しており不経済であった。 道内のローカル線は大幅な赤字路線で、民営化を控え改善策として、2動力2軸駆動のキハ56を両運転台化改造し1輌で運転できるようにした。 当初は急行「大雪」「ノサップ」や宗谷北線等で使用されていたが、キハ54が投入されると普通列車専用となった。 JR化後も深名線や札沼線で使用されたが、老朽化のため1996年までに全車廃車された。 '95. 20 深名線 幌加内 P:佐々木裕治 '62~'66年にかけ、新潟地区の非電化区間における通期輸送改善を目的に、増備中の一般型に加え、耐寒耐雪設備(床下スノープラウ・前面窓に熱線式デフロスタ等)を装備して31輌が登場。 車内・外観上で一般型との差異はないが、屋上通風器形状が、煙突型(グローブ型)から箱型の押込み式に変更となった点。 主に、越後・弥彦線系統で使用されるも、'84年に各線が電化の上、115系電車と置換わり、一部が余剰・老朽廃車となったほかは、首都圏の一般型が活躍する各線区へ転配となり、これらとの混運用となった。 JR化後も継続使用されるも、その後の各線の事情(電化等)に加え、車輌の老朽化も相まって置換えが始まり、'97年までに全廃、番代消滅となった。 写真の-522は'66年の富士重製。 '84年に木更津区へ転配、'88年に高崎区へ。 '96年の八高南線電化及キハ110系列車輌への置換えまで活躍。 '89. 1 高麗川 P:梶村昭仁 1985年(昭和60年)、苗穂工場においてキハ56系を改造して誕生したリゾート列車。 気動車によるジョイフルトレインの先駆的役割を果たした。 千歳空港からのスキー客を石勝線沿線に建設されたリゾートホテルへ輸送するため、ホテルが列車を借り切り営業収入を保証する条件で、国鉄とホテルの提携によって改造された。 3両編成で登場、両端の車両は展望車両、翌年中間車1両が増備された。 内装はホテルのラウンジを思わせる高級感のあるもので、塗色はホテルのイメージカラーのダークブラウンの地色に正面はゴールドとされ、シックで高級感のある外観は、鉄道車両では例のないもので、利用者のみならず沿線住民にも好評であった。 '89. 2 苗穂-白石 P:佐々木裕治 キハ35 900番代は、1963年に東急車輌で10輌製造された日本初のステンレス鋼製車体の気動車である。 0番代の鋼製車体を米国バッド社方式のステンレス鋼構造としたもので、基本的な形態は維持しつつ材料の薄肉化・車体無塗装化により自重 28. 4t は、0番代車より3t弱軽量化された。 新製時は塩害調査の目的で千葉区に配属され、0番代車と共に房総地区各線で使用されたが、房総地域の海岸線区電化後は高崎区に転じて八高・川越線で活躍した。 使用線区の電化・車輌近代化に伴い高崎車は1990年までに、茅ヶ崎区転属車 1輌-904 は1995年に廃車となり形式消滅した。 当初は無塗装であったが、房総地区の霧中での視認性向上のため前面のみ赤系の警戒色となった。 写真のキハ35-901は、1975年からは高崎区に所属し1987年2月廃車、現在は「碓氷峠鉄道文化むら」に現役時代末期の首都圏色で静態保存されている。 '74. 15 総武本線 銚子 P:長谷川武利 キハ35系はJRでは久留里線のキハ30形を除き絶滅した。 そもそもキハ35系は非電化で取り残されていた関西本線の大阪口の通勤輸送緩和のため、昭和35年12月より投入されたものである。 通勤型のため、101系電車よりひどい内装であったが、天王寺~奈良間を近鉄奈良線に対抗して快速は30分で走破した。 登場時は朝のラッシュ時に蒸機牽引のオハ31系の長大編成をキハ35系6連に置き換えたため、混乱が生じた。 後にトイレなしのキハ36も増備してやっと落ち着いたかに見えたが、沿線の通勤客を捌くのには四苦八苦の状態であった。 後にキハ35系は全国に登場したが、このような速度で運転したのは、湊町~天王寺~奈良間が唯一であろう。 ちなみに停車駅は王寺と大和郡山のみで、現在の大和路快速より早かった。

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